〇第3:譬喩品
法華経も、この品からたいへんやさしくなります。これまで深遠な哲理を理論的に説いておられたのを一変して、譬えなどを盛んに用いた、一般大衆にも分かりやすい説き方へ転換されるからです。この品の〈三車火宅の譬え〉もその一つであって、それにこめられた意味は、方便品で説かれたことを裏返して、「目前に見える境地の達成をめざして(羊車・鹿車・牛車を求めて)、自らの意志によって努力 努力すれば(走り出せば)、その努力はもっともっと奥の最高の境地(大白牛車)にまでちゃんとつながっているのだ」ということを教えられているのです。 なお、この品の中に、仏教の全経典の中でもすぐれて尊いものと言われる有名な偈(詩)があります。その中心となるのが、「この三界は、わたしのものだ。その中の衆生は、みんなわたしの子だ」という一句です。この「わたしのものだ」というのは、もちろん所有権の主張ではありません。かえってその逆であって、自分(我)というものをまったく捨てきった心境なのです。本当に我を捨てきってしまえば、宇宙全体のすべてのものに生かされている自分を発見することができます。そういう自分をしみじみと見つめていますと、自分がみるみる宇宙全体に広がっていくのです。それが〈宇宙はわがわがもの〉の実感です。そうなると、心はまことに自由自在、何ものにもとらわれず、思うようにふるまっても、それがすべて真理(妙法)にかない、自分をも、すべての人をも真に生かす行為になってしまうのです。禅宗で〈随所に主となる〉というのは、この境地なのです。 〈宇宙はわがもの〉の実感を得れば、宇宙の万物は、すべて自分と同じ存在になります。したがって、それらを幸せにするために親身に尽くさざるをえなくなります。そうした自他一体感が愛情の極致であり、仏教で教える慈悲とは、そうした愛情を言うのです。しかもそれは、たんに人間や動物だけを対象とするのでなく、〈草木国土悉皆成仏〉という言葉のとおり、植物も、無生物も、ありとあらゆる存在がそれぞれの存在価値を十分に発揮する(それがそのものの本当本当の幸せであり、成仏である)ことを願う心であります。自然破壊と自然汚染が人類の危機を招来しつつある今日、仏教で言う大慈悲がようやく本当に理解され、実践さるべき時代がやってきたものと思います。 なお、この品の後のほうに、正法をそしる者が受けるであろう罰がいろいろと述べられていますが、これらは仏によって罰せられるのではないことを、よく知っておく必要があります。仏は人を罰するような、すなわち人間と相対的な関係にある存在ではありません。万物を生かしている大生命であります。人を地獄に堕としたり、また、悩みや苦しみを与えたりするようなことをされるはずがないのです。 それでは、何がそんな罰を与えるのか。言うまでもなく自分自身です。真理に反する考えを持ったり、真理にそむく行いをしたりすれば、自ら真理のレールから離れるわけですから、転覆・衝突その他の不幸が起こってくるのは理の当然でしょう。仏教で教える〈業〉というのは、この原理なのです。後の品にも似たような説法がしばしば出てきますので、この原理をよく記憶しておいていただきたいものです。
第4:信解品(しんげほん) へ
法華経も、この品からたいへんやさしくなります。これまで深遠な哲理を理論的に説いておられたのを一変して、譬えなどを盛んに用いた、一般大衆にも分かりやすい説き方へ転換されるからです。この品の〈三車火宅の譬え〉もその一つであって、それにこめられた意味は、方便品で説かれたことを裏返して、「目前に見える境地の達成をめざして(羊車・鹿車・牛車を求めて)、自らの意志によって努力 努力すれば(走り出せば)、その努力はもっともっと奥の最高の境地(大白牛車)にまでちゃんとつながっているのだ」ということを教えられているのです。 なお、この品の中に、仏教の全経典の中でもすぐれて尊いものと言われる有名な偈(詩)があります。その中心となるのが、「この三界は、わたしのものだ。その中の衆生は、みんなわたしの子だ」という一句です。この「わたしのものだ」というのは、もちろん所有権の主張ではありません。かえってその逆であって、自分(我)というものをまったく捨てきった心境なのです。本当に我を捨てきってしまえば、宇宙全体のすべてのものに生かされている自分を発見することができます。そういう自分をしみじみと見つめていますと、自分がみるみる宇宙全体に広がっていくのです。それが〈宇宙はわがわがもの〉の実感です。そうなると、心はまことに自由自在、何ものにもとらわれず、思うようにふるまっても、それがすべて真理(妙法)にかない、自分をも、すべての人をも真に生かす行為になってしまうのです。禅宗で〈随所に主となる〉というのは、この境地なのです。 〈宇宙はわがもの〉の実感を得れば、宇宙の万物は、すべて自分と同じ存在になります。したがって、それらを幸せにするために親身に尽くさざるをえなくなります。そうした自他一体感が愛情の極致であり、仏教で教える慈悲とは、そうした愛情を言うのです。しかもそれは、たんに人間や動物だけを対象とするのでなく、〈草木国土悉皆成仏〉という言葉のとおり、植物も、無生物も、ありとあらゆる存在がそれぞれの存在価値を十分に発揮する(それがそのものの本当本当の幸せであり、成仏である)ことを願う心であります。自然破壊と自然汚染が人類の危機を招来しつつある今日、仏教で言う大慈悲がようやく本当に理解され、実践さるべき時代がやってきたものと思います。 なお、この品の後のほうに、正法をそしる者が受けるであろう罰がいろいろと述べられていますが、これらは仏によって罰せられるのではないことを、よく知っておく必要があります。仏は人を罰するような、すなわち人間と相対的な関係にある存在ではありません。万物を生かしている大生命であります。人を地獄に堕としたり、また、悩みや苦しみを与えたりするようなことをされるはずがないのです。 それでは、何がそんな罰を与えるのか。言うまでもなく自分自身です。真理に反する考えを持ったり、真理にそむく行いをしたりすれば、自ら真理のレールから離れるわけですから、転覆・衝突その他の不幸が起こってくるのは理の当然でしょう。仏教で教える〈業〉というのは、この原理なのです。後の品にも似たような説法がしばしば出てきますので、この原理をよく記憶しておいていただきたいものです。
第4:信解品(しんげほん) へ