〇寸鉄 〇

生きづらさを感じた時がチャンス!

 「精神療法」とは、人間同士の交流(主に言葉のやり取り)を通して症状や苦痛、さまざまな窮屈感や不自由感に介入する治療法のこと。 長年、精神療法に取り組み、多くの蘇生のドラマを見つめてきた精神科医の泉谷閑示さんに、生きづらさの捉え方について聞きました。

心の歴史をたどる

■泉谷さんは、「人間の精神の働きを知りたい」と、医学、音楽を学び、精神科医として従事する中で、薬を使わない精神療法を選ばれました。

 薬物療法は西洋医学的な捉え方で、症状をエラーと見て、取り除く対症療法です。例えば、虫歯で痛み止めを飲んでも、虫歯が治ったわけではありません。  うつ病の場合、医療現場は寛解を目指すことが多く、それは病気がおとなしくなった状態で、病気と縁が切れることではないから、再発しやすい。 僕はそこに割り切れないものを感じたわけです。

 心の問題が本当に「治る」とはどういうことなのか。なぜ生きづらいのか。なぜ行き詰まったのか。絶対に、そこには親との関係、学校、社会と、 生まれてから今までの「心の歴史」が関係しています。

 そこにアプローチできるのが、言葉です。言葉のやり取りで、問題が生じた根本を見直すと、現在も変わり、未来も変わる。それが本当の根本的 治療ではないかと考え、この形になりました。

■生きづらさを感じるのは、日本の「ムラ社会」的な、根強い同調圧力によるものが大きいのでは感じます。

 「自分の意見を持とう」と学校で教わるけど、それをやるといじめられたり、教わったことと現実が逆だったりします。日本は先進国なのに、 同調圧力という古くさいものが残っていて、しかもネットを介して見えにくくなり、昔よりひどくなっているかもしれません。この点も 生きづらさのもとでしょう。

 個人を見ると、親から条件を課されて生きてきた人が多いですね。お受験とか習い事とか。すると「条件をクリアしないと、親や世間から認められない」と感じてしまう。 だけど人間はそんなに勤勉じゃないから、できない自分に対して自己嫌悪を抱くことになります。

顔 VS 心と身体

■「~であらねば」に、とらわれてしまう・・・と。 人間の仕組みとして「頭」が「~であらねば」と要求しても、「心=身体」はやりたいことはやる、嫌なことはやりたくないとシンプル。心と身体は一心同体です。

 重要なのは「頭」と「心」の間のふたのようなもの。「頭」によってふたが閉まると「頭」 VS 「心=身体」という内部対立のような自己矛盾が起こります。 「頭」が「頑張ってこの条件をクリアすれば、生きていいよ」と言う。でもそんなの何十年も続かない。疲れて、あるがままの自分を、良しと思えなくなってしまう。

 うつや神経症など、行き詰まった時の具合の悪さは、すっと抑え込まれてきた「心=身体」が「もう嫌だ!」と、ストライキを起こした状態です。「心=身体」が 反逆すれば、過食症や酒乱になったり。自分の中が内部対立の状態なので、本当の自信など持てません。

 それを自覚せず生きてきて、ある時パッタッと具合が悪くなり「あれ?何が起こった?」と、気付くんです。

■苦しいけど、行き詰った時は、気付くチャンスということでしょうか。

 そうです。そこから始まるんです。それまでが良かったんじゃない。問題が表面化しなかっただけですから。

 動力のないトロッコのように、親とか社会の「こうするべき」に押されて走ってただけ。でも動力(本当のモチベーション)がないから、小石一個で止まっちゃう。

 「あんなに元気で順調だったのに」といっても、それはたまたまで”あなたの人生”ではなかった可能性が高い。

 今まで頭だけで生きて、心について考えてこなかったかもしれません。「心=身体」からのメッセージをちゃんと受け取ってほしいんです。

 例えば、会社に行けない、朝起きられない、食欲がない、眠れない・・・・そこには意味がある。「心=身体」が何を言おうとしているのか、しっかりとくみ取ることが、 本当の解決の糸口だと思います。

 もちろん、気付いただけでは変わりません。生き方を変える必要性を実感し、本当に変わりたいと思うこと。自身の内側をかえりみる作業を「内省」といいますが、 それが大事なんです。

 本当に治った人たちは、端的に言うと、元の状態や生活、生き方に戻ったわけではないんです。病気をきっかけに大きな内的変化が起こり、生き方そのものを見直したり、 根本的な価値観の見直しが起きている。

 だから、前よりいいんですよ。車で言えば、普通の修理ではなく、モデルチェンジです。

したたかに生きる

■モデルチェンジ後は、ありのままでいられるのでしょうか。

 ざっくり言うとそうですが、完全に心に従うだけだと、わがままで社会不適応な人が出来上がります。世の中、真っ白じゃありませんから、内側の大事なものを守りながら、 世の中と折り合う”すべ”を身に付ける、したたかさも必要です。

 でも、そうしたプロセスの中で、世の中のことにもおのずと気付くんですよ。無邪気に元気になるのではなく、自分一人では変えられない世の中で、自分は何をするのか、 つかんでいきますね。

 だから最初は「死にたい」と言っていた人たちが、今は生き生きと人のために社会活動したり、海外にいったり、矛盾を悠々と見下ろしながら会社に復帰したりしています。 それは”以前の頑張り”とは違う。頭で心にむち打つのではなく、心がやりたくて頑張るから、具合は悪くならないんです。 

■最後に、今、生きづらさを抱えている若者へ、メッセージをお願いします。

 現代は、衣食住に不自由していないのに生きづらい。便利で快適だけど、何か生きてる感じがしない。楽しいことはたくさんあるけど、実はどこか、むなしいですよね。 じゃあ何を求めているのか。表現が難しいけど、もっと深い人間の本質的な喜びとか、いきいきと生きる感じとかだと思うんです。

 ですので、行き詰った時がチャンスです。何も考えず人と同じ大通りを歩く人より、生きづらさに気付き違う道を行く人は、一歩先を歩いています。周囲から 「考えすぎだよ」なんて言われても、自分の後ろを歩く人に道を聞いちゃダメですよ。

 僕もとことん悩み尽くしてきました。雰囲気で悩む人が多いけど、ちゃんと悩んで、ちゃんと考えると、求めているものが見えてきます。そのきっかけを つかめたんだから「そうこそ!」と言いたいですね。