日付メモ
2025年12月06日
<鬼才 56
赤神諒 第Ⅱ章 黄泉比良坂 18>
西洋の名だたる画家たちは、自分自身の画風を確立していた。悔しいが、青木はすでに
偉大な画家たちと肩を並べつつあるというのか。
「青木グループの連中は、もう集まってるのかい?」
和田は絵から目を逸らしながら、話題を変えた。
「そうだろうね。僕たちじゃ、滅多に入れない西洋料理だからね。たまには、青木も
まともな物が食べた方がいい」
今夜は上野精養軒で、青木の受賞を祝う会が開かれる。
藤島が貧乏画学生のために口を利き、金も援助してくれたらしい。藤島も青木を買っている。
妬ましくてならなかった。
五号館を出ると、とっくに日は落ちていた。
いつしか雨も上がっている。
和田は青木の驕慢に辟易して、ここしばらく疎遠になっていたが、競うよりも面従腹背すべき
相手なのか。
「黒田先生も、よく青木に賞をやる気になったもんだね」
首の蝶ネクタイを確かめながら、和田が水を向けると、熊谷も頷く。
「やっぱり情実と藝術は別物なんだろう。黒田先生は偉大だよ」
青木はこれまで、黒田に決して膝を屈しようとはしなかった。
昨年、黒田の『舞妓』を模写する授業で、青木は師と真っ向から対決した。
青木が描いた舞妓は髪の照りもなければ簪もない。あだっぽさも抑えてあった。
指導しようとした黒田に対し、青木は、見た目その通りに何十枚でも模写できるが、藝術を
やるために美校へ入ったのだから、絵を写すなんて真っ平御免だと応酬した。
さらに、京都美術協会雑誌に黒田が掲載した『美術学校と西洋画』には「想像力を養うべし」
とあり、「ことに歴史画では想像力を及ぶ限り広げるべし」との旨があったと指摘し、該当箇所
を朗々と諳んじてみせたのである。
黒田は余裕の笑いを浮かべながら「君は好きにするといい」と折れた。
2025年12月05日
<鬼才 55
赤神諒 第Ⅱ章 黄泉比良坂 17>
青木が歩み寄り、師に対して人並みの敬意さえ払うなら、美校を一手に牛耳り、洋画界で
最大の力を持つ黒田が後ろ盾となって、青木の出世を後押しするに違いなかった。
そうなればもう、和田に勝ち目はない。
(畜生・・・・・)
和田は青木作品を破壊したい衝動に駆られた。
悔しいが、一生を懸けても、和田にはこんな作品を描けはすまい。
実際に見たこともない世界の創造など、どうやってやるのだ?
だが、それは黒田とて、同じだ。
留学したいと訴える和田に対し、「猫も杓子も留学だね」と恩師は気のない返事を返した。
黒田は巴里で欧州の画家たちに揉まれるうち、悟ったらしい。
じょせん自分は最果ての島国、日本の画家に過ぎず、世界に認められる藝術家ではない、と。
黒田の師であるラファエル・コランも技巧に優れているだけで、美術史に残る才能ではない。
すでに諦めの境地に達した黒田は、仕事として携わりはしても、美術への情熱を失っている
ように、和田には見えた。
「やはり、いい空想画だ。何度も眺めたくなる」
青木の画を前に立ちすくむ和田に話しかけてきたのは、熊谷守和だ。
飄々とした仙人のごとき若者で、誰とでも分け隔てなく付き合いたい、わけても青木と特に
仲がよかった。
和田は青木と同質で、ぶつかり合うが、落ち着いて静かな熊谷とは、相性が合うのだろう。
技巧において青木に次ぐ熊谷は、和田の当面の目標だった。
押し黙っていると、熊谷が穏やかな声で続けた。
「青木はいよいよ自分にしか描けない絵を描き始めたね。時は掛かるだろうが、僕も自分の
世界を探してゆくよ」
2025年12月04日
<鬼才 54
赤神諒 第Ⅱ章 黄泉比良坂 16>
和田を遥かに上回る美校随一のデッサン力を持ち、その気になれば写実主義に徹しうる
青木が、あえてその力を放り捨て、印象派を思わせる淡い色彩と粗めの筆触で、この世に
存在しない無幻を描いた。
常識に囚われぬ自由奔放な線、青緑を基調とした見事な色彩が画面にしっかりと定着
している。
これまで言葉でのみ存在していた神話世界が、一人の画家の手により、確かな洋画技法
で現代に創造されたのだ。
明治36年の10月8日、青木は初めて展覧会に出品し、『黄泉比良坂』のほか、葉書大
の小板に描いた『闍威弥尼』、『優婆尼沙土』など13点から成る『神話画稿』を出品し、
21歳の若さで、美校在学中に<白馬賞>をあっさり受章した。
画題さえ難解な一連の青木作品は、日本と印度の古代神話に題材を求めた幻想画だった。
(畜生! いい絵を描きやがる)
和田の出品した『蜻蛉』など、青木の藝術に比べればはるかに浅く、児戯に等しかった。
恥ずかしくて、破り捨てたいほどだ。
以前、青木は得意げに「いい絵を描きたかっきゃ、対象の中へ入って行くんだ」と
言っていた。この絵は、神話の世界に入り込んで描いたわけか。
ありきたりの写実の絵画ばかりが並ぶ展覧会場の一角に突如現れた幻想画群は、そこに
別世界を作り出し、訪れる者たちを否が応でも魅了した。
新聞各紙も、「土臭い写実ばかりに苦労して、これを藝術の全部だと思ってゐるらしい
団体の中に超自然の事に手を付けようとする人のあるのは喜ばしい」とか、「今後の画界
において注目すべき好画家」と評した。
評はともかく、青木作品の前だけに連日できる鑑賞者の行列こそが、その新鮮さと
魅力を端的に示していただろう。
黒田も手放しで褒め、展覧会評に「最も理想という点で面白い現象を顕はしたのは青木繁
君のスケッチで、此等は確かに今迄の白馬会の出品と大いに趣を異にして居る」と書いた。
2025年12月03日
<鬼才 53
赤神諒 第Ⅱ章 黄泉比良坂 15>
一 和田参造 2
ーーー明治36年10月、
上野公園・5号館
しつこい秋風がひねもす上野公園を濡らし、煙らせていた。
そのせいか、閉館間近の5号館・白馬会展覧会場に、人影はまばらだった。
改めて『黄泉比良坂』を間近に見て、和田を惨めに立ちすくんでいた。
作品がもつ怪奇と神秘の魔術に抱き締められた後、もう何も考えられなくなった。
悔しさや焦りさえ、忘れた。
このような絵を、これまで誰か描いたことがあるだろうか。
愛妻イザナミがいる黄泉の国から、光溢れる現世へと逃げ帰るイザナギ。
青木が上野図書館で乱読していた日本神話の一場面だ。
頭を抱えるようにして明るい光の世界へ去りゆく裸身。青紫の深い冥界から正者
を追いかける不気味な女体の群れ。
今にも動き出しそうで、叫び声まで聞えてくる。
画学生たちが描き続ける写実とかけ離れた幻想画は、まるで青木が実際に冥界へ行って、
見てきたかのように確かな質感で描かれていた。
青木が好む藤村の「うらわかき想像は長き眠りより覚めて、民族の言葉を飾れり」と
いう一節を彷彿させる作品だ。
和田は黒田から、あらかじめ「青木君らしく面白い絵だったよ。君も、参考にしたまえ」
と聞き、展覧会の初日にすでに一度見た。心構えはできていたはずが、打ちのめされた。
(これが青木繁の絵か・・・・)
和田は食い入るように天才が創る世界に見入った。
青木はカンヴァスを用意できず、別の水彩画の裏に描いたと聞く。絵具を買い足す
金もなく、水彩に色鉛筆とパステルで紙に描いただけの作だ。
だが、藝術の値打ちが、画材できまるわけではない。
2025年12月02日
<鬼才 52
赤神諒 第Ⅱ章 黄泉比良坂 14>
「・・・・願書なんてものがあるのか?」
森田の問いに青木はたじろぎ、「しまった」という情けない顔をしてきた。
「まだぎりぎり間に合うはずだから、手続きと搬入期日を調べておくよ」
森田が苦笑いしながら、坂本に目配せしてきた。
同居人の大事な役回りだ。青木は恐るべき才能を持って生まれついたぶん、
生活能力が恐ろしいほど欠落していた。
「ところで青木君。実はこの前、帯を買ったんだけど、別に母が送ってくれてね。
幾本あっても仕方ないから、もしよければ使わないか?」
「俺もそろそろ入り用だと思ってたところだ。助かるぜ」
坂本が差し出した帯を青木は喜んで受け取り、画嚢の上に置いた。
これでようやく、荒縄を卒業してくれそうだ。以前、見かねた森田が買って
贈ろうとしたところ、虫の居所が悪かったらしく「俺は物乞いじゃねぇ」と
突き返されたと聞いていた。
「長らくご無沙汰しているが、不同舎のほうはみんな元気にやってるか?」
絵しか頭にない青木は高飛車だが、根は優しく、周りを一応心配していた。自分も
貧窮しているくせに年寄りの物乞いに恵んでやるし、道を尋ねられると紙に鉛筆で
地図と目印の建物をわかりやすく描いて感謝されもした。
その優しさは不器用で、つっけんどんで、全く洗練されていないが、幼児から武士の
ように育てられた青木は、頑固なほど義理難いところがあった。
「変わったことといえば、娘さんが入ったよ。気は強いけど、少し綺麗な人だ」
坂本は、画塾の何人かで写生へ行く途中、女画学生の福川たねが、通りがかりの男に
右手のイーゼルを投げつけんばかりに身構えた話をした。
小さな体で大きな画材を抱えて歩くたねを見て、男が嘲笑したからだと言うと、
青木は関心を示した。
「一段落したら、俺も顔を出してみるか」
「みんな、喜ぶと思うよ」
坂本が目指すのは、青木と全く違った道だが、共に歩む日々は楽しい。
2025年12月01日
<鬼才 51
赤神諒 第Ⅱ章 黄泉比良坂 13>
「どいつもこいつも、まだ理解できねぇか。じゃあ、次は戯画でもやるかね。
俺はやりたいことがいっぱいあるんだ。さっさと白馬賞を受賞して、世にでねぇとな」
そういえば、上州の妙義を一緒に旅した際、青木は面白可笑しいコマ送りの絵を
描いていた。
明るくて愉快な青木がその気になれば、人を笑わせる戯画を幾らでも描けそうだった。
「その前に、まずはカンヴァスを手に入れなきゃね」
森田が口を挟むと、青木が苦笑いしながらストンと畳の上に腰を下ろした。
「ねえ、お腹が空かないかい?青木君の出品作の構想を聞きながら、腹拵えでも
そようよ」
持ってきた紙包みを坂本が差し出すと、青木は子供のように燥いだ。
「中村屋のジャムパンじゃねぇか!世にこれほど美味い食い物も珍しい。
あの歴山大帝でも楽しめなかった味だぞ」
やはり何も食べていなかったらしく、青木は早速パンを頬張ると、森田も手を
伸ばした。
三人で、いつものように藝術談義を始める。
白馬会展に向け、青木は「日本神話の世界を描く」と宣言した。
かねて温めてきた構想で、頭の中に一つの完全な世界が出来上がりつつあると
言い、「これまで誰も描いたことのない世界を俺の筆で創って見せる」と二つ
目のジャムパンを手に、熱心に語った。
若き洋画家のぼろ着姿が、坂本にはかえつて神々しくさえ見えた。
「俺が描くのは、現実の向こうにある永遠の時空だ。凡人には見られない神々の
姿さ。猿真似画壇を変えてやる」
まだ描いてもいないのに、青木は自信満々で言い放った。
無名の画学生の大言壮語を世間は笑うだろうが、坂本にも森田にも見えない世界を、
青木だけは楽しんでいる気がした。
「それで、青木君。出品の願書は出したのかい?」
2025年11月29日
<鬼才 50
赤神諒 第Ⅱ章 黄泉比良坂 12>
青木の新作<太田の森>は、よくわからない絵だった。
深緑の暗い森は、青木が気に入っているスタジイの小径だろう。
中心から少し左の大木の陰に立つのは人とわかるが、かなり粗雑な筆使いだ。画の
上部には、所々ごく小さな陽の光らしき明るさが見えてはいた。
「前に描いた<夕焼け>は、誰も理解してくれなかったからな。今度はわかりやすく
したんだ」
ためらいもなく禁忌の<黒>を用いてあり、黒田たちの外交派に真っ向から逆行する
暗さだ。他方で、脂派の堅実な描写でもない。
まるで、対象物を照らす光もほとんでない暗がりで、印象派の画像が不本意に描いた絵
のようだった。
なぜ青木は、新旧両派の神経を逆撫でにするような、いずれもが受け入れにくい絵を、
わざわざ描くのだろう。
「夕暮れのようにも見えるけど、これは何時頃を描いたんだい?」
坂本の問いに、青木は朗々とした声で吟じた。
暮れぬれば 絵具を収め帰る路 月なき谷に猿の声する
青木は即興で朗々と自作らしい歌を披露してみせてから、種明かしをするように続けた。
「確かに日暮れもいいな。だけど、この絵は明るい夜でもあり、朝でもあり、夕方でも
あるんだ」
「だけど、そんなことは、現実にありえないじゃないか」
身を乗り出して応じる坂本に、青木は堂々と対した。
「だから藝術なんだよ。矛盾する時間を一つの絵に収めてみた。写真には絶対に創れない
仮像さ」
仮像とは、青木の好む言葉で、実在しない仮の姿だという。つまり、青木の頭にしか
存在しない。
森田もこの絵を気に入らないのか、沈黙したままだ。
2025年11月28日
<鬼才 49
赤神諒 第Ⅱ章 黄泉比良坂 11>
やがて、唐草模様の襖が荒々しく開かれ、痩身長躯が姿を現した。
青木は、錦の片羽縞の久留米絣に荒縄の帯を締めていた。
長年使い込んだ帯がついに切れてしまい、農家から貰ってきた荒縄を代わりに使って
いる。この前会った時のままだ。
「おう、来てたのか、繁二郎。息災にしてたか?」
青木はどの場所であれ一度歩き始めたら、まずは後ろを振り向かない人間だった。
たとえ帯の代わりに荒縄を使おうとも一切恥ずかしがらないし、俯きさえしない。
逆に胸を反らして顎を突き出し、周りの人間を睥睨するかのように、偉そうにふんぞり
返っていた。
「その自画像、巴里のサロンには通用しても、日本画壇の連中じゃ、まだわからねぇ
だろうな」
「僕はいいと思うよ」
新派、旧派もへったくれもない。青木にしか描けない絵だ。これこそ青木の自画像だと、
坂本も思った。
「へぇ、繁二郎も藝術がわかってきたじゃねぇか」
童を褒めるように、青木がふざけて坂本のいがぐり頭を撫でてきた。
「だけど、人間写真機のお前が、何でその絵を認めるんだ?」
「この自画像が君の本質を表現していると思うからだよ」
揶揄い混じりの青木にも、坂本は真っ直ぐに答えた。
むろん写実を旨とする自分の絵とはかけ離れている。それでも、坂本はこの絵が大好き
になった。
「その通り。写実でも写真でも、上っ面じゃなくて、対象の本質を表現できれば、それが藝術
なんだ」
青木は部屋の隅からカンヴァスを一枚取り出してきて、坂本と森田に見せた。
「じゃあ、俺の最新作、<太田の森>はどうだ?」
自信たっぷりの青木をしり目に、坂本と森田は同時に絵の中を覗き込んだ。
何が描いてあるのだ、これは・・・。
2025年11月27日
<鬼才 48
赤神諒 第Ⅱ章 黄泉比良坂 10>
坂本が青木の三脚椅子に座るや、ギギーッと安物の脚が軋んで壊れそうなほど
ぐらついた。
美校のごみ捨て場で拾ってきた代物を直したと聞いたが、青木はこんな椅子で
描いているのか。
(これは、何て凄まじい絵なんだ・・・・)
イーゼルに立てかけられた25号の自画像に、坂本は衝撃を受けた。
いきなり頭をぶん殴られたような気さえした。
闇から浮かび上がるような朱の輪郭で描かれた青木が、カンヴァスの向こうから
睨みつけてくる。
乱暴とさえ言える筆使いで、尽きぬ不安を醸し出す背景は、明らかにこの部屋の
襖の金地の唐草模様から得た発想だ。
半身で振り返り、かすかに顎を上げて見下すような眼差し。そして、固く閉じられた
への字口が、天才の傲岸不遜を見事に伝えている。
恐ろしいほどに青木らしさを捉えた絵だ。
「強烈な絵だね。こんな自画像を描いた画家、誰かいたかな?」
いつのまにか森田がそばにに来ており、わが事のように誇らしげに応じた。
「いるわけないさ。青木君はいつも世界で初めてのことをやりたがるから。白馬会には、
これを出すんだね?」
在学中の身でありながら、青木は秋の白馬会展に出品すると大見得を切っていた。
むろん本気だろう。
太平洋画会の坂本には無縁だが、腕に覚えのある美校の画学生なら挑戦したい、重要な
展覧会だ。
「いや、これは卒論制作に自画像を提出するって聞いた日に、何か閃いたらしくて、さっと
描いちゃったものさ」
そのため白馬会出品用のカンヴァスを使ってしまい、また新しく用意する必要が生じたの
だが青木は「何とかなる」と言うだけで、何もしてはいないらしい。
にわかに階下が慌ただしくなった。
老婦人の上品な笑い声の後、いつもの青木の発声練習が聞こえた。
2025年11月26日
<鬼才 47
赤神諒 第Ⅱ章 黄泉比良坂 9>
夜が来た森で、猿が悲しげに鳴いている。
青木たちは森にある大きな一軒家の二階の角部屋を間借りしていた。
品のよい老婦人が一階に住んでおり、坂本も顔馴染みだ。
玄関へ入って挨拶すると、にこやかに「いらっしゃい」と微笑んでくれた。
階段を上がり、唐草模様の襖の部屋を訪ねた。
あいにく青木は不在で、森田がカンヴァスに向かっている。
「できますか?」
坂本は森田の後ろに立ち、低い声を出して、おどけてみた。
昨秋、信州小諸での写生中、羽織袴にステッキ姿の見知らぬ紳士がスケッチ中の
青木に声を掛けてきたのだが、後でそれが同宿の島崎藤村だとわかった。その時の
真似を青木がやり出し、青木グループで流行ったいたのである。
「どうだかね。今日も差し入れかい?友情はありがたいね。昨日は梅野君、一昨日
は熊谷君が来てくっれたよ」
毎日のように、青木を心配する友人たちが下宿を訪れては、食べ物や余りの画材
を置いて行くらしい。同居の森田も支援しており、下宿代も一人で負担しているが、
気位の高い青木は「恵まれる」ことを拒否するから、さりげなさも求められた。
青木は気が向くと、スケッチがてら遠出し、農家の力仕事を手伝ったりして
謝礼に芋や野菜などをもらっていたが、冬には作物も少なくなる。森田が目につく
場所へ日持ちする食べ物を置いておくと、青木は勝手に食べるらしい。
「今日はジャムパンを持ってきたよ。森田君にまで苦労をかけて、すまないね」
坂本が謝る筋合いでもなかろうが、同郷の腐れ縁と違って、埼玉出身の森田は
まだ二年ほどの付き合いだ。
「僕は楽しくやってるだけさ。少しでも青木君に近づけばと思うけど、彼の背中は
はるかに遠いね」
森田も確かな描写で黒田に褒められたそうだが、同郷の青木から学ぶことのほうが
多いらしい。
2025年11月25日
<鬼才 46
赤神諒 第Ⅱ章 黄泉比良坂 8>
坂本が夕暮れの太田の森へ入ると、風に木々がざわめいた。
(青木君のあの絵は良かったな。いつか僕もあんな絵を描けるだろうか)
写生旅行の成果として、青木は<錦鶏山の夕日>という背景を意外な緑に染めあげた幽玄の絵や、
目覚めんばかりの紅葉の鮮やかな写生などを持ち帰った。
未払いを含め「店賃一年分を天才画家の絵で支払う」と青木は言い張った。秀望館の強欲そうな
主人は、絵を受け取ったものの、商売を人に譲るからと言い、二人を追い出してしまった。
(森田君となら、うまくやっていると思うけど・・・・)
昨秋、不同舎から美校へ進学した森田は、青木の才能に憧れており、温厚で好もしい性格で、
坂本も一安心していた。
以前は一緒に暮らしていたのに、青木と会うのはひと月ぶりだった。何かで忙しくなったのか、
近ごろは不同舎にも顔を出さない。
坂本も、青木グループの面々との交流は刺激的で楽しいし、何か腹の足しになる食べ物を
届けたいと思って、太田の森を時々訪ねるのである。
青木の父は病がちで、少ない収入がさらに減り、家と土地を担保に借金しながら極貧を強いられ
ているそうだ。青木も実家を心配し、少しでも金をおくれればいいんだがと呟きながら、何も
手立てを講じようとはしなかった。
大きなスタジイの小径を抜けると、青木の下宿の明かりが見えてくる。
坂本は奮発して中村屋のジャムパンを手土産に選んだ。安くて腹持ちがいいものよいえば餅だが、
梅野もよく持ってゆくから、あえて避けた。
(僕は幸せだ・・・)
やはり上京して正解だった。坂本は毎日が楽しくてたまらない。
不同舎には塾則もなく、室内には、所狭しと画学生たちの三脚やカンヴァスが置かれ、絵具や
溶き油、筆、ナイフなどが誰の物ともわからぬまま、散らかっていた。それでも、同じ道を
目指す画友たちとの交流は新鮮だった。
2025年11月24日
<鬼才 45
赤神諒 第Ⅱ章 黄泉比良坂 7>
「帰りがけに会った熊谷も、これを見て首を傾げてたよ。どいつもこいつも、まだ理解できねぇか。
まぁ人生はまだまだ長い。日本を飛び出して、巴里で突き詰めるしかねぇな」
威勢よく言い切った後、青木はみるみる情けない顔つきになり、そのまま後ろへバタンと背を倒した。
「手土産の月餅、食うか?」
「おう。歴山大帝も飯を食った。ありがたいな」
仰向けになったまま差し出された痩せた手の上に、梅野は月餅を二つ、置いてやった。
五 坂本繁次郎 2
ーーー翌明治36年(1903)5月、
東京千駄木・太田の森
まだ空に日は残っているのに、緑豊かな鎮守の森は夜の支度を始めていた。
坂本は根津権現の清新な境内を抜け、青木の住む太田の森へ向かう。
裏門坂の北には、太田道灌の末裔が徳川家光から賜った屋敷があったそうで、黒々とした森が広がる。
青木は詩想を喚起されるんだと、大いにこの森を気に入り、毎日のように散策していた。
昨日夏の上京以来、二人は追分町の秀望館で貧しくとも一緒に楽しく暮らしたが、家賃を払えなくなり、
ついに追い出さされたのである。
坂本は引き続き不同舎近くで、下宿を探したのに対し、青木は田端に住んだものの、またも不払いで
下宿を追われた。
その後、坂本や他の画学生の下宿に転がり込んで転々とし、今は美校の後輩で親しい森田常友を掴まえ、
大田の森にある下宿の六畳一間に落ち着いている。
昨秋、坂本は青木に強引に誘われ、群馬の妙義から信州へ写生旅行に出かけた。金は何ともならず、
宿代はもちろん、破れた服を繕う糸さえなかった。
結局、坂本が母方の叔父に泣きついて久留米から電報為替を送ってもらう羽目になったが、偶然あの
島崎藤村に会って話もできたし、実りある旅だった。
2025年11月22日
<鬼才 44
赤神諒 第Ⅱ章 黄泉比良坂 6>
「結局、これは何を描いたんだい?」
坂本が首を掲げながら問うと、青木は得意げに応じた。
「別に、何でもないって、じゃあ画題は?」
「画題は必ずなきゃ駄目なのか?昔は別になかったろう。夕焼けを見ながら思いついたから
<<夕焼け>>でもいいかな」
小品を坂本から受け取り、梅野はもう一度注意深く見つめる。
言われてみれば、左半分少し上にチョンと置かれた一筆の赤茶が、夕日に見えなくもない。
その下の黒い太線は地平線、いや水平線にも見える。
そうすると、下方にある横長の赤茶のかすれは、天空を映す水面なのか。ならば、山と湖が
あるのか・・・。
驚きの体験だった。
見ているうちに、くれゆく山並みが現れ、赤茶けた雲まで立ち現れる。
坂本も狐につままれたような顔をしていた。正確に対象を写し取り、写実を突き詰める坂本は、
これを絵とは認めないかも知れない。
「どこで見た夕焼けなの?」
「俺の心の中で見た夕焼けさ。いや、見る人間が好きに感じればいい。そろそろ外光派ってのも、
食傷気味だ? 日本はいつまで西洋の猿真似を続ける気だ?俺は黒を使って、真逆を行ってみたのさ。
本当はどでかいカンヴァスに堂々と描きたいんだけどな」
「こんな絵を描くのは、青木君だけだよ」
「つまり新しいってことじゃねぇか。それこそが藝術さ」
何かわからぬものを描くのが、はたして藝術なのか。
梅野にもいただけなかった。
「それで、藤島先生は何と?」
「藤島がどう言おうとは関係はねぇが、まずはわかりやすい作品を描けってさ」
カンヴァスは言うに及ばず、青木は板ペラを買うにも不自由していた。だが、仮にこんな落書きを
大作にしたところで、新旧派いずれも一顧だにすまい。
2025年11月21日
<鬼才 43
赤神諒 第Ⅱ章 黄泉比良坂 5>
「案ずるな、吾輩は、世界を目指して日々着実に邁進している。今日は藤島と話をしてきた」
青木の言葉に、梅野が身を乗り出し、坂本も筆を止めた。
名だたる洋画家と直接話せるとは羨ましい限りだ。
青木は畳に正座し直した。厳父の躾が体に染みついており、姿勢はいい。
下級武士ながら青木家は茶道、礼法をもって藩に仕えてきた家柄で、態度こそ粗野に感じられても、
青木の立居振舞は言動と不釣り合いなほどに、いちいち礼法に適っていた。
「教授とはどんな話をしたんだ?世紀末美術は?モローか?」
藤島の指導は独特で、学生に黙って手を差し出し、木炭や筆を受け取ると、描かれた線をまるで
無視して、力強く一番大事な構成の線を入れる。
その線は最初こそ意外に思えるが、改めて考え直してみると、他にはありえないほど考え抜かれた
線なのだった。
天才青木でさえ、最初は藤島の洗礼を免れなかった。青木は「直せるものなら直してみろ」と
言わんばかりに胸を張って幾本かの線を宙に描いた。ふた月もしないうちに、藤島は青木の絵を見て、
頷くだけになった。
「ふと思いついて、いいのが描けたら、藤島に見せたんだ」
画嚢をまさぐっていた青木が「どうだ?」と、葉書板の油彩画を一枚差し出してきた。
梅野は拍子抜けした。
黒と焦茶が基調で、下の方は深緑だろうか。他には赤茶がわずかに数カ所描かれているだけだ。
これは「絵」なのか。子供の落書きにしか見えなかった。
「図書館で調べ物をするつもりが、今日はこれを描くのに、半年も使っちまった」
「君にしては時間を掛けたが、例えばロセッティとは随分違うな」
梅野が言葉を選んで応じると、青木はむしろ嬉しそうな顔をした。
「当たり前だ。俺は青木繁だからな。猿真似はしねぇよ」
2025年11月20日
<鬼才 42
赤神諒 第Ⅱ章 黄泉比良坂 4>
他方、明治美術会は解散して<太平洋画会>にその流れが受け継がれていた。主客の逆転はあれ、
旧派と新派の激しい対立の構図は変わっていない。
「色々な摩擦があるみたいだよ。小山先生は、ずいぶん青木君を買っていたそうだがらね」
弟子入りしてきた青木を、小山は「不同舎始まって以来の才能だ」と絶賛し、教室に繋がっている
自分のアトリエへ特別に呼び、懇切丁寧に指導した。
弟子たちにも手伝わせて世話を焼き、青木の旧派の旗手に育て上げようと考えたらしい。だが、
当の青木は一年も経たぬうちに、新派の牙城たる美校へさっさと進学してしまったのである。
青木は不同舎で旧派の手堅い画技をすっかり取得したから、次は新派の新鮮な画風に触れ、独自の
道を切り開こうと考えたようだが、師の小山にただのひと言も相談しなかった。そのため太平洋画会
からは、恩人に後ろ足で砂をかけて去った「裏切り者」と見られていた。
本人は新旧両派の対立に無頓着でも、小山を始め旧派を敵に回したわけだ。
他方で、青木は新派の牛耳る美校で学びながら、頭目である黒田と馬が合わない。行く先々で重鎮
と衝突する畏友の行く末を、梅野は心配していた。
にわかに階下が喧しくなった。
嵐のごとき喧騒が近づいてくる。
青木繁のご帰還だ。
かねて青木には華があった。
彼の登場により、他の人間は脇役へ回る。中学時代から青木は我が強く、写真を撮る時も真ん中に
でんといるか、よく目立つ場所に陣取った。
汗じみた白い着物に黒い袴、裸足に白い鼻緒の草履の青木が画嚢を背負い、戸口に現れた。大きな
画板と汚れた絵具箱を提げている。
「おう。梅野。学校のほうはどうだ?」
今日も食べていないのか、畳へ上がる時、青木の足元が少しふらついた。
「俺のロセッティ研究より、君の方がよほど心配だな」
2025年11月19日
<鬼才 41
赤神諒 第Ⅱ章 黄泉比良坂 3>
梅野が尋ねると、最近は実家からの仕送りも途絶えがちらしい。度を越した貧困をものともせず、
上を向いてわが道を闊歩する青木の姿は勇ましいが、痛ましくもあった。
「貧乏も、間違って飢え死にしない程度にしてほしいね」
「その青木君が、上州と信州へ写生旅行に行くって、急に言い出したんだよ」
「だけど、路銀は工面できたのか?」
武者修行よろしく、画学生は海や山へ写生に出かけるものだが、先立つものがなければ不可能だ。
「頑張って、行きの汽車賃だけはね。僕は無理だって言ったんだけど、青木君は何とかなるさって」
青木は能天気なだけで、結局、尻拭いをするのは周りの人間さ。
坂本を気の毒に思ったが、好きな絵に打ち込みながら、気の合う幼馴染みとの二人暮らしを楽しん
でいる様子だから、梅野も余計な口を出さなかった。
「青木はまだ不同舎に出入りしてるんだってね」
気心の知れた画友がおり、モデルのデッサンもできるから、青木は時どきふらりと顔を出す。
母を郷里に置いて坂本を上京させた責任も、感じているのだろう。
美術に関心がある者にとっては周知の話だが、かねて日本洋画界では新旧二派が対立していた。
浅井忠、小山章太郎ら<明治美術会>の旧派と、黒田晴輝、久米圭一郎ら<白馬会>の新派で
ある。
旧派は堅牢、重厚で暗い茶褐色の色調ゆえに「脂派」と呼ばれた。これに対し、新派は感覚を重視
して、陰にも黒の代わりに紫を多用し、光に満ちた明るい表現をしたために、「外光派」とか、
「紫派」などと呼ばれた。
日本画の重鎮や東京美術学校を巻き込んだ勢力争いの結果、新派がひとまずの勝利を収めた。洋画の
主流は今まさに、官立である美術教授の座をほぼ独占した白馬会へと移っていたのである。
2025年11月17日
<鬼才 39
赤神諒 第Ⅱ章 黄泉比良坂 1
四 梅野光雄 1
ーーー明治35年(1902)11月
東京本郷・追分町 >
「それで、青木はまだちゃんと生きてるのかい?」
梅野が夕刻、不同舎そばの下宿秀望館を訪ねると、青木と同宿中の坂本が在宅していた。
机に向かう坂本は、はにかんだように挨拶した後、「今朝の時点ではね」と苦笑交じりに
応じてきた。
青木は風邪を引いても医者に行かず、どれほど高熱で苦しんでも「寝れば治る。医者に払う
金があったら、ワットマン紙を買うさ」と相手にしないと言う。
「青木の頑固は、あの親父譲りだ。一生、変わりそうにないな」
梅野と青木は明善中二年にころ、文芸を愛好する学生たちで編む回覧雑誌『画像』を通じて
親しくなった。
青木は溢れる文章に、いとも不思議な画を付し、仲間たちから一躍注目を浴びた。さらに皆が
驚いたのは、青木が学校にいる間に描き上げてしまうことだった。厳父が目を光らせる自宅では、
絵を描けないらしかった。
青木の上京に感銘を受けた梅野は昨年、自らも明善中を退学、早稲田大学文学部の第一回生と
して進学し、美学を学んでいた。ラファエル前派のガブリエル・ロセッティを研究して卒業論文
を書くと宣言すると、「ミレイのほうが画は巧いがな」と腐しつつも、青木は喜んだ。会うたび、
藝術論を語り合う仲だ。
「昨日は、今時分に帰ってきたよ。図書館の人に追い出されるまで頑張ってるみたいだね」
坂本とは、青木を通じて久留米時代から交流があり、信頼できる友だ。「東京が初めての
繁二郎が心配だ」と同居を始めたくせに、聞けば案の定、坂本のほうが青木の世話を焼いていた。
梅野は六畳一間の壁にもたれて座ると、青木に頼まれていた蒲原有明の詩集『草わかば』を置き、
代わりに数少ない蔵書の中から、モローの画集を手に取って開く。
2025年11月15日
<鬼才 38
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 29>
森は、新しい西瓜に手を伸ばす青木から、隣の坂本へ視線を移した。
真面目だけが取り柄の秀才が、長い生涯をひたむきに、ただ一本の道で貫き通したなら、
もしかして輝ける天才に並ぶ日も来るのではないか。
(青木君を身近に知っていることが、かえって、坂本君の大きな強みになるかも知れない)
不出世の天才と当たり前に接していれば、ちょっとやそっとの才能と出くわしたくらいで、
恐れを感じはすまい。
坂本にとっては、青木の存在がライヴァルたちの魔除けになりうるわけだ。
誠実な坂本が、強い心さえ持ち続けられれば、天性の努力家として、はるか高みを目指せる
のではないか。
西瓜にかぶりつく青木の隣で、坂本が森を見ていた。すがるとうな目だ。
森が、やはりやめた方がいいと忠告をしたら、素直な若者は従うだろう。
だが坂本は、上京する自分の背中を押してもらおうと思い、もう一度ここへやってきたのだ。
「わかった。青木君と同じように、坂本君も不同舎から始めればいい。私でよければ、紹介状を
書こう」
「そう来なくっちゃな」
嬉しそうに顔を輝かせる坂本の背を、西瓜の汁で汚れた手で、青木が乱暴に叩く。
「よかったな、繁二郎。東京では俺が面倒を見てやるから、安心しろ」
森の生涯で、この二人以上の弟子はもう出まい。あたう限りの応援をしてやりたいと思った。
それが、藝術を愛する教育者としての歴史に対する責任だ。
藝術の神は、森に十分な才能を与えてくれなかった。
だがその代わり、久留米という小さな町に、二つの輝く才能を同じ年に生み、森のしがない
画塾の門を叩かせた。自らは歴史に輝く作品を残せずとも、二人の偉大な画家を洋画の世界へ
誘った者として、森三吉の名が美術史に刻まれる日が来るかも知れない。
2025年11月14日
<鬼才 37
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 28>
森が窓の外を見ると、夏の終わりの日差しのなか、馬蹄通りを折れて大股で早足に歩いて
くる長身と、その隣で小走り気味の小柄な若者の姿が見えた。
何を話しているのか、若者たちは白い歯をみせながら笑い合っていた。
「青木君、坂本君」
森が窓から顔を出して手を挙げると、先に気付いた青木が手を振りながら賭け出した。
慌てて坂本が、その後ろをちょこちょこついてくる。微笑ましい光景だ。
やがて家に来た二人を歓迎し、森は井戸水で冷やしておいた西瓜を切り分け、馳走した。
「先生も、俺みたいに才能があればよかったなぁ」
鼻持ちならない教え子だが、これほどの驕慢がなければ、世界の藝術家と渡り合えはすまい。
「応援しているよ、青木君」
「片田舎で、ガキ相手に落書きを教えてる図画教師なんぞ、画界で何の助けにもならなねぇよ」
心無い暴言に、さすがの森も気分を害したが、隣の坂本が憤然と親友を叱った。
「青木君、何てひどいこと言うんだ!」
だが青木は微塵も動ぜず、口を横広に開いて嗤った。
「俺の恩返しは、志を亡くした三流画家に、心にもねぇおべっかを使うことじゃなくて、画界の
歴山大帝になることさ。そうすりゃ、先生も世界のAOKIに絵を教えたって、自慢できるだろう」
言葉はすこぶる悪いが、青木なりに森に恩義を感じてはいるらしかった。
「なあ、先生。自分が駄目だったからって、繁二郎も失敗するとは限らねぇだろう?」
森はハッとした。
自分の決断を後悔してはいない。だが、藝術を愛する者として、森はたまに夢想するのだ。
もしあのまま京都で絵を続けていたら、自分は今頃、どこで何をしていたろうか、と。
2025年11月12日
<鬼才 35
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 26>
森は往時を懐かしく思い出す。
ある時、坂本が描いた<温石谷>の墨絵を見せられて、青木は、
「俺なら、こいつとはぜんぜん違う絵を描くがね」
と言い、幼い弟を連れて高良山南麓へ写生に行った。
坂本の正確な描写は、落ちてゆく滝の音が聞こえるようで、水しぶきの清冽さが
じかに伝わってくる。だが、技巧さえ磨けば誰でも描ける秀才の絵だった。
それに対し、得意げに披露する青木の<温石谷>は、現実のどこにも存在しない。
天才が想像で創り出した幻の谷だった。近寄りがたいほどの霊性を感じるのだ。一度でも
見たら、夢にまで出てきそうな夢幻世界だった。
だがそれ以来、青木は画塾にふっつりと来なくなった。
半月ほどして、<温石谷>が家で父親に見つかり、破り捨てられた挙句、二度と絵など
描かぬように申し渡されたらしいと、坂本から聞いた。
坂本を弟子に持ったことは森の誇りだったが、青木の場合はむしろ怖かった。
天が人類に与えた恐るべき才能を森ごときが預かるより、早く然るべき指揮者に引き渡す
べきだと考えた。
悩んだ末、森は密かに青木の父蓮吾に会いに行った。だが、ろくに話も聞いてもらえず、
恐ろしい剣幕で追い返された。
それでも、自分の天才に気付いていた青木は、勉学を放棄して絵にのめり込むようになり、
ある日、東京美術学校について尋ねてきた。森は躊躇なく、「君は上京すべきだ」と
応じた。
美校に伝手はなかったが、同郷の誼を頼り、新進気鋭の洋画家吉田博が学ぶ<不同舎>に
紹介状を書くと約した。一枚でもデッサンを描けば、必ず入門は認められよう。
不同舎を主宰する小山章太郎は、日本洋画界の重鎮だ。美校へ入学できた弟子も少なく
なかった。
2025年11月11日
<鬼才 34
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 25>
翌朝、森が学校で「絵を学んでみる気はなにか」と声をかけたところ、青木は
「父の許しがもらえないから」と、あっさり峻拒した。
森が生まれる前に、武士なる種族はもう滅んでいた。だが、力を失ったのに、士族は
気位だけは高かった。
代言人をしながら生計を立てる青木の父は典型的な没落士族だった。尊大に振る舞う
せいで、客も寄り付かないそうだ、と同僚から聞いた。
「そうか。でも、もし絵を描きたくなったら、いつでも私の画塾に来なさい。月謝は
要らないし、絵具や筆も、私の物を使えばいいから」
明善中へ進学後、青木は文芸に打ち込んだものの、文章に絵を付けるうち、絵を描く
のが楽しくなったらしい。
二年へ進級したある日、青木は森の自宅に突然現れ、家に内緒で絵を教えてほしいと
頼んできた。
森は興奮した。世界の誰もまだ知らぬ、恐るべき才能が自分の前にいるのだ。
14歳の少年が初めて描いた石膏デッサンを見た時、森は目を疑った。
眩暈を覚えるような才能の発露だった。むろんまだ粗削りだが、理論も何も知らない
はずなのに、すでに並みの画学生のレヴェルを超えていた。基礎も短時日で取得できよう。
この才能がどこま伸びるのか、森は空恐ろしいくらいだった。
鉛筆デッサンなど、ほとんど教える必要がなかった。
何を教えても、青木は一を聞いて十を知った。習画帳の模写や写生でも、普通なら
一枚描く間に、青木は数枚描き終えてしまう。しかも正確だ。教える前から、青木は
遠近法も明暗法も生得していた。
青木には、浅井忠やコンスタンブル、ターナーの作品、森が切り抜いておいた新聞
『日本』掲載の中村不折の挿絵を与え、片っ端から模写させたが、途中から飽きたらしく、
手本を換骨奪胎した自作を描くようになった。森は本物より青木の模写のほうが
好みなくらいだった。
2025年11月08日
<鬼才 33
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 24>
「森先生。この馬はもう、僕が描いた馬じゃありません」
ーー次の絵手本は何を描くんだ?
と、同級生たちに問われ、坂本は得意になって自信作を披露した。
それを見た青木が、
ーー死んだような馬じゃねぇか。
ーーだって、骨だもの。
ーー繁二郎、俺に貸してみろ。
と、紙と鉛筆を奪うように取り、止める間もなく骨馬にどんどん線を描き足して
いった、という。
森は改めて馬の絵を見た。
前足の蹄の線にかすかな丸みを与え、後ろ足の大腿骨をわずかに膨らませる。腹部を
力強くなぞり直し、最後に顎骨の角張りに微妙な陰影を付け足してあった。
描き直された骨馬は、まるで魂を得たように逞しくなった。
京都で森を絶望させたあの才能の蕾が、いや、それをはるかに凌駕する、恐るべき
可能性が目の前にあった。
「でも先生、青木君は絵なんか、習っていないはずなんです」
青木は学業優秀、学校では生徒たちの中心にいる人気者だったが、祖父と父が峻烈な
気性の持ち主で、明治の世でも武士のように厳格に育てられている話は、教員の間でも
有名だった。
そのぶん学問に勤しみ、驚くほど教養があったが、絵などほとんど描いたことは
なかったろう。
「世の中には、ごく稀だけれど、天才が現れるんだよ」
藝術の神は、ふと気が向いた時に、人間の世界に悪戯をするらしい。
とてつもない才能を、その時代の一人の人間にだけ、与えるのだ。
とはいえ、いかに優れた才能も、しかるべき境涯を得なければ、芽吹きはしない。惜しい
ことに、別の道へ進むことだって、ありうるのだ。
画界の末端に身を置く図画教師として、異才を知ってしまった以上、世に出す責任があると、
森は考えた。
2025年11月07日
<鬼才 32
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 23>
藝術の世界は甘くない。
多少才能のある人間が努力したところで、天才に勝てない。神が味方しているからだ。
沈黙する坂本に対し、森はついに、最後まで取っておいた言葉を吐いた。
「坂本君、君は、青木君とは違うんだ」
顔を上げた坂本は、ハッとした表情で森を見ていた。
目にみるみる涙が浮かんでゆく様子に、森も心が軋んだ。
京都で挫折を味わった森にも、痛いほどその気持ちがわかった。
「わかりました。青木君に断ります。母も養わなきゃいけませんから。一時の気持ちの
迷いでした」
懸命に微笑もうとする坂本の涙顔が、痛々しくてならなった。
その坂本が今日、もう一度会いたいと言ってきた。青木も連れてくるという。
青木繁、という名を、森は畏怖をもって受け止める。
森が初めてその存在を意識したのは、青木が久留米高等小を卒業する頃だった。
年度途中に同小の図画教員として採用された森は、弟子の坂本の作品を、石版で白黒の
線画や数色刷りにし、生徒たちに絵手本として配っていた。
ある日、坂本が一枚の絵を持ってきた。
次の絵手本にする、学習用の馬の骨格デッサンは、何度も下絵を描き直し、森も手を入れて
やった苦心の作のはずだ。なのに、また描き直したのかと不思議に思い、手に取って驚いた。
明らかに一流の域に達している。
「坂本君はもう僕を追い越してしまったね。まるで馬が紙から飛び出してきそうだ。魂を
持った骨の馬なんて、この世にはいない。でも、絵の中なら何が起こっても構わないんだ。
それが藝術というものだよ。素晴らしい作品だ」
森は誇張なく褒めたつもりだが、坂本は嬉しそうでなく、むしろ当惑していた。
2025年11月06日
<鬼才 31
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 22>
のんびり暮らしていた十八歳の坂本は、兄の急死で家を背負わされた。学歴も商売の経験も
ない青年は、途方に暮れた。
森はすでに東筑中学校に赴任していたが、弟子の苦境を知るや、懸命に奔走し、久留米高等
小の代用教員の仕事を斡旋してやった。
坂本らしい誠実な仕事ぶりで、同僚の評判は非常に良く、生徒からも慕われていると聞いた。
本人も「先生が僕に教えてくださったように、絵を描く面白さを子どもたちに伝えられて、
毎日が楽しくて仕方ありません」と喜んでいた。ただ、代用教員では月給が安いから、図画
教師の勤め口をどこかに探してやるつもりだった。
その坂本が一昨日、森に大事な相談をしてきた。
「青木と東京へ出て、絵を学びたいのです」という。
まだ20歳だ。
いくらでも失敗していいはずだが、坂本は2年前に兄を亡くして家長となった。
明治の世において、家長は家を背負い、家族を養わなければならない。
坂本には人柄の良い賢母がいるだけが、父祖から受け継いだ大きな屋敷を維持するだけでも
大変だろう。
去年森が帰省した時に、坂本の最近の絵を見せてもらったが、成功する実力があるとは
言い切れなかった。
森は、自分の京都での経験を語り聞かせたうえで、ひとまず定職に就き、図画教師として
手堅く生きたほうがいいだろうと忠告した。
親身になって告げた言葉あったか、坂本は元気なく俯き、黙り込んだ。
「絵の才能は、生まれつき決まっているんだ。ある程度は巧くなれるが、努力にも限界が
あるんだよ」
坂本は生涯、鳴かず飛ばずで終わる恐れが少なからずあった。
そんな先輩や同期生を、森は幾人も見てきた。だから、自分も夢を諦めたのだ。
2025年11月06日
<鬼才 30
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 21>
森は、坂本がこのまま努力を重ねて、かつ幸運にも恵まれれば、洋画家の道も夢ではないと、
考えていた。
だが、どの世界でも上には上がいる。
京都で森は、西日本から集まった俊秀たちに格の違いをみせつけられた。ついには、自分の
限界を悟り、洋画家の道を諦めて故郷へ帰ってきたのだ。
野や滝を描かせれば、ため息が出るほど美しい作品が出来上がる。だが、同じレヴェルの人間は、
京都でさえごまんといた。東京はもっといるだろう。
あいにく幕末に何もできなかった旧久留米藩は、藩閥政治とは無縁で、縁故にも期待できなかった。
森の教育は基礎にすぎない。もしも絵で身を立てたいなら、東京で学ぶべきだと坂本に勧めた。
藩主の馬回り役で中級武士だった坂本家はまだしも恵まれており、家長たる長男でもないから
上京はしやすかったはずだが、坂本は悩んだ末、久留米にとどまると決めたはずだった。
画界で輝ける人間など、ほんのひと握りだけだ。
本人が冒険を望まないなら、それでいいと森は思った。
だが、坂本の諦めは、一番の親友が放ち続ける続ける天才の輝きを目の当たりにした結果である
ことを、森は知っていた。
坂本は入塾以来、森が自作した精密な着色石板画を時間をかけて何度も丁寧に模写して、洋画
らしい実写の喜びを覚え、技法を着実に習得した。
これに対し、青木には基礎を教える必要がなかった。森が用意した浅井忠の水彩画や英国製の
油彩画の手本を片っ端から一、二回模写しただけで、自家薬籠中の物にしてしまった。
青木の上京後も、坂本は気の向くまま手すさびに素人らしからぬ絵を描いたが、豆腐屋か
飴屋か、大工になろうかと思っています、と言っていた。
2025年11月05日
<鬼才 29
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 21>
森は、坂本がこのまま努力を重ねて、かつ幸運にも恵まれれば、洋画家の道も夢ではないと、
考えていた。
だが、どの世界でも上には上がいる。
京都で森は、西日本から集まった俊秀たちに格の違いをみせつけられた。ついには、自分の
限界を悟り、洋画家の道を諦めて故郷へ帰ってきたのだ。
野や滝を描かせれば、ため息が出るほど美しい作品が出来上がる。だが、同じレヴェルの人間は、
京都でさえごまんといた。東京はもっといるだろう。
あいにく幕末に何もできなかった旧久留米藩は、藩閥政治とは無縁で、縁故にも期待できなかった。
森の教育は基礎にすぎない。もしも絵で身を立てたいなら、東京で学ぶべきだと坂本に勧めた。
藩主の馬回り役で中級武士だった坂本家はまだしも恵まれており、家長たる長男でもないから
上京はしやすかったはずだが、坂本は悩んだ末、久留米にとどまると決めたはずだった。
画界で輝ける人間など、ほんのひと握りだけだ。
本人が冒険を望まないなら、それでいいと森は思った。
だが、坂本の諦めは、一番の親友が放ち続ける続ける天才の輝きを目の当たりにした結果である
ことを、森は知っていた。
坂本は入塾以来、森が自作した精密な着色石板画を時間をかけて何度も丁寧に模写して、洋画
らしい実写の喜びを覚え、技法を着実に習得した。
これに対し、青木には基礎を教える必要がなかった。森が用意した浅井忠の水彩画や英国製の
油彩画の手本を片っ端から一、二回模写しただけで、自家薬籠中の物にしてしまった。
青木の上京後も、坂本は気の向くまま手すさびに素人らしからぬ絵を描いたが、豆腐屋か
飴屋か、大工になろうかと思っています、と言っていた。
2025年11月04日
<鬼才 28
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 20>
森が長く面倒を見てきた坂本は、身長こそ以前とさして変わらないが、礼儀正しい好青年に
なっていった。
他方、中学時代から2年ほど絵のほどきをした青木とずっと会っていなかった。以前は何事にも
自信たっぷりで、森のこと師というより、多少絵の相談ができる同郷の先輩くらいにしか思って
いなかったかも知れない。
没落士族の子である2人と違い、森の父は馬鉄通り大きな醬油屋の番頭をしていたから、貧乏
ではなかった。
森が念願の京都府立画学校洋画科で学んだ後、図画教師となるべく故郷へ帰ったとき、たまたま
知人の紹介で、坂本が絵を教わりに来た。
自室の襖を墨で真っ黒にするほど絵が好きな坂本は、まだ洋画を知らなかった。
十歳の少年に、森は自分より優れた画才を感じた。
基礎技法が出来ていなかったため、鉛筆デッサンから初めて遠近法や明暗法を丁寧に教え、
英国から取り寄せた採色の習画帳なども使い、主にターナーを模写させた。
森の指導をどんどん吸収してゆく少年の上達に心を躍らせたものだ。
もともと抜群の才能がある上に、絵を描くのが三度の飯より好きで、努力を惜しまない。
水墨画も、油彩画も立派なものだった。
久留米高等小の在学中に墨で描いた<ライオン>は口々に褒められ、その絵は額装されて
講堂に掲げられた。
故郷の久留米で「神童」と讃えられる坂本を、森も誇らしく思っていた。
日清戦争で戦死しても喇叭を口から離さなかった木口小平を描いた畳一畳ほどの大作は、
篠山神社に奉納して旧藩主からも激賞された。
有馬家の紋章入りの文鎮を褒美にもらった坂本は、本当に幸せそうだった。その笑顔を見て、
森も心から祝福したものだ。
坂本の技量は、十五にして森を凌駕していた。
2025年11月03日
<鬼才 28
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 19>
「もちろん美校には、お前より巧い奴はいるさ。だけど、ずっと下手くそな奴だって、同期に
ゴロゴロいるぜ。お前と違うのはただひとつ、志だけさ」
青木のことだから、単に東京への長旅が独りだと寂しいだけかも知れない。
それでも、話を聞くうち、頑張れば美校のレヴェルに手が届きそうな気もした。
でも、坂本が久留米を出てしまったら、母はどうやって生計を立てればいいだろう・・・・。
とても無理だと言いかけた時、青木が何気なく付け足した。
「お前は今、絵を描いてて楽しくないだろう?絵を見りゃ、わかるんだ」
無言のまま大通りへと出ると、ちょうど鉄道馬車が来ていた。馬鉄通りは両面に商家や書店がびっしり
と並ぶ、久留米きっての繁華街である。
高く昇ってゆく太陽と、すぐ傍らに立つ畏友が、坂本には眩しかった。
三 森三吉 1
ーーー35年(1902)8月
久留米・日吉町
部屋の壁には、教え子たちが付けた懐かしい絵具の跡がまだ残っている。
森の実家は、馬鉄通りから北へ一本入った日吉町にあった。
二階の自室には今、机と本棚があるきりだが、かってはあの早熟の天才も、この部屋に
通っていた。
(青木君の落書きだな・・・・)
他とは明らかに違う。
何を描いたのかは不明だが、少年時代の青木が自分の中に創り出した世界であるはずだ。
その隣には、ケシケシ山を描いた坂本の正確な描写がある。
八幡の福岡県立東筑中学校で図画を教える森が、夏休暇の残りを実家で過ごそうと戻ったところ、
青木も帰省していますと、坂本が知らせてきた。
もうすぐ、二人がやって来る。
2025年11月01日
<鬼才 27
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 18>
「二人とも失格か。乱視と近視で目がさっぱり見えてねぇらしい。どうも見え方がおかしいと思って
たんだが、兵役を、免れるとはめっけものだな」
青木は眼鏡を取ったり、外したりしながら、続ける。
「これで、心おきなく藝術の歴山大帝を目指せる。天が俺に、世界に冠たる傑作を創れって、命じる
んだよ。やはり神は、いつだって天才に味方する。父上に申し上げるのはおっかないが、お国が決めた
ことだ。天の加護をつくづく感じるぜ」
志族としては不名誉だが、がからこそ青木は開き直ったのだろう。
「僕も拍子抜けしたよ」
青木も不合格と聞いて、坂本は二人のために心底ほっとしていた。
仲間ができた安心もあるが、見栄っ張りの青木は虚勢を張って恰好をつけるし、とにかく自信家だから、
戦場でも無茶をして死んでしわないかと、実は心配でたまらなかった。
「少し早ぇが、馬鉄で飲まねぇか?これからも絵が描ける祝い酒だ」
青木は常に手元不如意なため、坂本の払いになるが、もうすぐ東京へ帰るなら、じっくり話を聞きたい
と思った。
酒好きの青木と違って坂本は下戸だが、いずれこの天才は、本人が断言する通り世界のAOKIになる。
自分はその一番の親友なのだと思うと、誇らしかった。
「この前の<櫨の月>っていう麦酒店でいいね?女の給仕さんは少しばかり不愛想だけど」
「ああ。あの店は西瓜もやけに美味ぇからな。ところで繁二郎。もう一度言うが、最近のお前の絵はさっぱり
駄目だぞ。昔の絵のほうがいいくらいだ」
いともあっさり坂本の絵を否定し去ると、青木が肩へ手を回してきた。
「俺と一緒に東京でくらさねぇか?お前の腕前なら、黒田ぐらいにはなれる」
突然の誘いに、坂本は驚いて長身の青木を見上げた。
2025年10月31日
<鬼才 26
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 17>
人の群れなす停車場を過ぎ、二人が池町川沿いを歩いて行くと、妙泉寺の返り屋根が見えてきた。
境内の外まで、若者たちの列がはみ出している。
「何だ、あの行列は?まさか、あれに並べってのかよ」
青木が大げさな身振りの歎き節で立ち止まった。
「そうみたいだね」
「なぁ、繁二郎。徴兵検査を受けなきゃ、どうなるんだっけか?」
「徴兵法違反だから、罰せられるよ。せっかくはるばる東京から帰って来たんだからさ。
これぐらいの行列、並ぼうよ」
「まったく、どいつもこいつも。この俺を誰だと思ってやがるんだ」
前途洋々たる青木ほどの洋画家を戦場に送り出す、のみならず、せっかくその気になって戦場へ
行ってやるのに、検査で行列に並ばせるとは何事かと、憤懣やる方ない様子である。
行列が進む間も、青木はぶつくさ文句を垂れていたが、ほどなく途中で列が分けられ、坂本と
離れ離れになった。
順番が来ると、坂本は褌ひとつになって身体検査を受け始めた。ところが、思いもがけず、
検査はすぐ終わった。
合格に必要な五尺一寸(約154.5センチメートル)に、身長がわずかに足りなかったのである。
結核でもない限り、ほとんどの者が合格してゆく中で、坂本は申し訳ない気もしたが、内心ホッと
していた。
青木は内科検診に入ったのか、辺りに姿はなかった。
世間体では、徴兵検査不合格など家の恥、男の恥だ。早く家に帰りたいと思ったが、青木を置いては
帰れない。
坂本が先に本堂を出て境内の隅に縮こまっていると、青木がふんぞり返るように胸を張りながら現れた。
出てくるのが意外に早い。
「身長が足りなくて、僕は乙種だったよ」
青木はハッ、ハッ、ハッといつもの大笑いをした。
2025年10月30日
<鬼才 25
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 16>
「じゃあ今日は、俺もお前も、合格間違いなしだな」
「どう考えても、僕は戦争に向いてないと思うけどなぁ」
自分が戦死してしまったら、たった一人残された母はどうするのだろう。元武士の子として、
勇ましく出征すべきなのだろうが、坂本は生まれつき争い事を好きでなかった。
「お前は俺が守ってやるから、そばにいろ。だけど招集されたら、同じ戦場に行けると思うか?」
内心可笑しくなった。戦場にもついてほしいのだろうか。
「僕たちは佐賀連隊区に入るから、一緒かも知れないね」
「そいつは朗報だ。戦場じゃ、やっぱり絵を描いたら駄目なのか?」
「そりゃあ、戦争をしに行くんだから」
坂本が笑っても、青木はいたって真面目な顔つきだ。
「ナポレオンは画家を連れ歩いたのにな。日本じゃ、まだ無理か」
青木が自分より下手くそと断言するアントワーヌ=ジャン・グロなるフランスの従軍画家を、
坂本は知らなかった。青木は東京で日本最高の教育を受け、西洋美術史も学んでいる。恐ろしく
勉強するから、英語も不自由なく読めた。
「まあ、人生はまだまだ長い。戦争も、俺に画題と発想を与えてくれるだろう」
いつも青木は楽天的だった。
まさか自分が戦死するなど、微塵も考えていまい。たとえ一個師団が全滅しようとも、青木繁
一人は生き残ると、根拠もなく確信しているに違いなかった。
長い付き合いでわかるが、前向きとは少し違う。
自分がやることだから常に成功するし、周りもそれに協力するはずだ、という思い込みに由来
する楽観だ。
でも今のところ、青木はその生き方で成功を収めつつあった。大事な局面では、。きつと天が
天才を助けるのだろう。
2025年10月29日
<鬼才 24
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 15>
坂本は絵を描き、教えることが楽しかったはずなのに、<ランプ>を目にして以来、
どんな絵を描いてもつまらなくなく思えて、仕事でしか絵筆を取らなくなった。
鈍才が久留米の片田舎でくすぶっている間に、天才が東京で努力を重ねたのだ。
一生かけてもおいつけはしないほどに差が広がるのは、当たり前だった。
「図画教育は大事だぞ。藝術を何もしらねぇくせに、馬鹿にする連中もいるからな。
お前みたいに真摯な絵好きが日本全国でしっかりと教えるべきだ」
洋画家への道を着実に踏み出しつつある青木に対し、坂本はただの絵画愛好家に
すぎない。
青木は美校の同級生は言うに及ばず、名だたる教授陣まで馬鹿にしていた。
それどころか、コンスタブルやターナーさえ歯牙にもかけておらず、ミレイ、ロセッティ
やモロー、バーン=ジョーンズ、モネあたりをやっとライヴァルだと思っている様子だった。
それも、あくまで当面乗り越えるべき対象であり、尊敬などしていまい。
無言のまま線路を渡り、二人は京町駅の雑踏に紛れた。
「なあ、繁二郎。徴兵ってのはどんな検査をするんだ?」
「以前に兄さんから聞いた話だと、身長とか体重とかを計って、病気がないか調べるみたい
だね。兄さんはあの頃から病がちだったから、乙種だったけど」
「麟太郎は返す返すも残念だったなぁ。出世して、俺の絵を買ってくれそうだったのによ」
坂本の兄は、京都第三高等学校(現在の京都大学)採鉱冶金科の優等生で、奨学金ももらって
いたが、22歳で結核のために亡くなった。
幼い頃に父も疱瘡でなくなっていたから、坂本が18歳で喪主を務め、亡兄の下宿の片付けを
するために京都まで行った。他に兄弟姉妹もあらず、今は坂本が家長として家を背負っていた。
家族は母だけだが、兄弟も同然も青木がいる。
2025年10月28日
<鬼才 23
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 14>
子供の頃、坂本と青木は筑後川で川遊びに興じ。釣りに熱中した。
青木は泳ぎも上手なら、手先も器用で、糸釣りだけでなく、銛を使う魚突きや投網など
様々な方法を試した。二人でよく、唄子に作ってもらった草餅を食べ、三銭の氷ラムネを
半分こしたものだ。
「戸籍さえなきゃ、お前はまだ高等小で通りそうだけどな」
青木がいつもの笑い方をした。
背高の青木は、ちびの坂本より頭ひとつ高く、子供と大人ほどの身長差があった。青木は
大股で早足だから、坂本は軽い駆け足のようになる。
同じ年に没落士族に生まれたことは同じだが、二人は体格も性格もまるで正反対だった。
出会った時から、青木繁は眩しかった。
頭が良く、抜群の成績で旧藩校の明善中学へ進学したし、のろまの坂本と違って、何でも
テキパキこなした。
何よりも、坂本が幼時から「絵のムシ」と呼ばれるほど好きで、得意にしていた「絵」さえ、
あっという間に追い越していった。
最初は坂本も嫉妬を覚えたが、すぐに驚嘆と諦めに変わった。天才と競い合ったところで、
鈍才が勝てるはずもない。あんまり違い過ぎるから、かえって馬が合うのだろう。
「繁二郎、図画を教えるのは面白いか?」
上京した青木は美校の3年生だが、故郷にとどまった坂本は、久留米高等小学校の代用教員
をやっていた。
「ああ、やりがいはあるよ」
嘘だった。
以前は子供たちに絵の素晴らしさを伝え、描くことの喜びを教えたいと、張り切っていた。
齢も近いので「あんしゃん先生」と兄のように慕われ、一生懸命に面倒を見てきた。だが、
昨年夏に帰省した青木と再会してからというもの、坂本は鬱々としてたのしまなかった。
青木が見せてくれた<ランプ>という作品に、度肝を抜かれたからだ。
2025年10月27日
<鬼才 22
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 13>
二人並んで家を出た。
青木は子分の坂本を従えているかのように胸を反らせて歩く。
世の中は、常に青木を中心に回る。
周りもそれを容認してきたし、東京の美校でも同じらしかった。
「おばさんもぜんぜんかわらなぇな。安心したよ」
二年前に坂本の兄である長男が急死した時、唄子は悲嘆にくれた。
武家の嫁として表にこそ出さないが、心中では毎日、亡き息子を思っているに違い
なかった。
青木もそれを知って、心配してくれていた。家がひどく貧しいせいで、東京へ出る前の
青木はたいてい腹を空かせており、よく坂本家に来て夕飯を食べていたものだ。傍若無人でも
裏表がない青木を、唄子も可愛がっていた。
「お父上の具合は、どなんだい?」
父蓮吾の話になると、青木の背筋がピンと伸びた。
青木は破天荒な変わり者だが、父親にだけは意外なほど従順だった。
家長としての自覚を持てと躾けられて育った青木は、高等小学校から身内を気に懸け、母と
弟が流感にかかって心配だからと、授業を早引きした日もあった。
「幸い、大事なかったよ。改めて青木家を頼むと仰せだった。むろん、ご期待に応えるつもりさ」
大昔に蓮吾が世話になった律儀な武士がいたのだが、証文の利子が払えぬ詫びとして、腹を掻き
切った。取り立て屋から遺族を守るために、蓮吾はその借金まで抱え込んだという。
明治の世になって、蓮吾は裁判当事者の代理をして法廷に立つ代言人の仕事をしていたが、
疲労で倒れたと聞いた。
幼い記憶にある坂本の亡父とは、まるで違う。子煩悩だった父は、畳一畳もある大凧を作り、
武者絵や草木を一緒に描いてくれたものだ。馬の絵を父に褒められて、坂本は絵を描くのが好きに
なった。
「兵隊になるなんて、僕たちも、もう大人になったんだね」
2025年11月25日
<鬼才 21
(第Ⅰ部)光あれ 第Ⅰ章 ランプ 12>
ニ 坂本繁次郎 1
ーーー翌35年(1902)8月、
久留米・京町(20歳)
昼食を終えた坂本が庭のアカギの木を眺めながら、居間でしばし寛いでいると、何やら
屋敷全体が騒々しくなった。
すぐわかる。青木繫だ。
「繁次郎、いるか!」
玄関までズカズカ入り込んで大声で叫ぶ旧友の癖は、久留米高等小学校の同級生だった昔から、
全く変わらない。
寂しがり屋の青木は、筑後川で泳ぐにも、お気に入りのケシケシ山(兜山)へ登るにも、
たいてい誰かを伴った。
坂本が頻繁に誘われたのは、教室の座席が前と後ろで親しくなり、断らずにどこへでも
ついて行ったからだろう。
だから今日も、二十歳の徴兵検査まで誘いに来たわけだ。庄島町にある自宅から会場の
妙泉寺は近くなのに、わざわざ京町の坂本の家まで遠回りしてきた。
「おう、おばさん。元気そうで何よりだ。繁次郎をちょっと借りるぜ」
母の唄子の返事は聞こえないが、「安心しなよ。俺も繁次郎も合格さ。士族のくせに乙種
(不合格)で落とされるなんて話、みっともねぇからな。俺なんか、父上に槍で突き殺されちまう」
などと怒鳴るような声は、近所まで筒抜けだ。
地声が大きい上に、青木は昔から何事にも自信満々で、内気でぼそぼそ話す坂本とは、声も
態度も対照的だった。
「やあ、青木君。僕たちが徴兵だなんて、何か緊張するね」
坂本が玄関へ出ると、唄子と話し込んでいた青木が白い歯を見せて、ハッ、ハッ、ハッと
一つひとつ区切りながら笑った。
これを聞くと、なぜか懐かしくて、坂本はホッとする。
「行こうぜ、繁次郎。久留米藩士のご出陣だ」
とはいえ、久留米藩は維新で何もできず没落し、貧乏士族はなお困窮に喘ぐ日々が続いていた。
青木家などは、その最たる家だろう。
2025年10月24日
<鬼才 20
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 11>
和田は青木の誘いに迷った。
身勝手な人間のくせに、青木は誰彼見境なく気軽に人を誘う。
青木は常に窮乏しており、たいてい誰かと一緒に住んでいた。同宿と言えば聞こえはいいが、実際には
下宿を追い出されて、絵具箱とイーゼルに夜具を抱えて、友人の下宿に転がり込むわけだ。
以前は小石川の原町に画友の高村真夫、国分浜国太郎(後の小杉放菴)と住んでいた。二人とも黒田と
対立する太平洋画会に属しており、和田はあえて疎遠にしていたが、むろん青木は頓着しない。
青木との二人旅も面白そうだと思ったが、帰省の予定はなかった。和田は四男で、実家には医師の父や
鉱業に従事する兄たちがいるから、何も心配はない。
「俺は東京で、黒田先生にご指導いただく約束だから」
「お前は筋がいいし、最近腕を上げてるから、この調子なら、岡田や久米ぐらいにはなれるかもな」
傲慢不遜な物言いでも嬉しく思うのは、和田が青木の才能を畏怖しているからだろう。
「俺の目標は君だ。兎と亀のように君を追いかけるさ」
「兎と違って、俺は寝ている暇がねぇんだよ。世界に打って出て、画界の歴山大帝(アレキサンダー大王)
になるのに、休んじゃいられねぇからな」
文学にも造詣の深い青木は、詩や小説も読んだ。抜群の教養を持ち、和歌まですらすらすらと詠む。
先日は高山樗牛が雑誌『太陽』に掲載した「歴史画の本領及び歴史画」を読めと勧めてきたが、和田は課題
に追われ、とても読む余裕などなかった。
だが、和田には画界の最重鎮である黒田の後ろ盾があり、美校教授陣の覚えもめでたい。秀才には、
秀才なりの戦い方があるのだ。
ーーいつか必ず青木に追いついて、完膚なきまでに打ちのめしてやる。
じゃあまたな、と教室から出てゆく青木の背を見ながら、和田は心に誓った。
2025年10月23日
<鬼才 19
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 10>
完敗だ。
和田は青木の次に自作を披露するのが、恥ずかしくてならなかった。
授業が終わると、青木の周りに学生がたかってきた。
同期でも文句なしに第一の実力を誇る青木には自然、人が集まった。不愉快な話だが、「青木グループ」
などと呼ばれている。
「下絵は何枚、描いたんだい?」
天下でも取ったかのようにふんぞり返る青木に、熊谷が尋ねた。
「ワットマン紙を切らしたからな。モリの下宿へもらいに行って、戻ってから描き始めたんだ。構図を
決めるのに1、2枚落書きしたけど、どうしても読みたい本があったもんでね」
青木は小1時間で作品を描き上げてから寝床で読み始め、夜明け前に読了したものの、朝がた眠って
しまい、授業に遅れたという。
「レオナルドやラファエロも、きっと青木みたいだったんだろうな」
高木が感服した様子で漏らすと、青木は大満足で笑った。
「おいおい、高木。ミケランジェロも忘れずに加えてやってくれよ」
画学生が三々五々散ってよくなか、和田は青木に声をかけた。
「君の作品には参ったよ。どうすれば、俺もあのような絵が描けるのかな」
褒められると、青木は有頂天になり、得意を隠そうともしない。
「文学にどっぷり身を漬けてみろ。詩心を養わずして、絵心は磨けまい」
青木は島崎藤村をこよなく愛好していた。中でも、自選の詩抄の序に記された「伝説はふたたび
新しき色を帯びぬ」という一節が好きらしい。
単身上京した際、青木の持ち物も藤村の『若菜集』だけだったという。
「青木は久留米に帰るんだろう?」
「かれこれ2年も戻ってねぇからな。長男だから、家族の面倒は俺が見なきゃならねぇんだ。
お前も福岡に帰るんなら、博多まで一緒にいかねぇか?」
2025年10月22日
<鬼才 18
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 9>
和田は心ならずも、青木の作品に見入っていた。
同寸大に描かれたランプのたまご色の傘と透明な硝子は、まるでそこに実物が存在するかのようだ。
年季を感じさせる青銅の燭台部分も精密に描かれ、指でつまめばランプが手にとれそうだった。
ぼかしと滲みの技法は一見粗雑だが、よく見れば、計算し尽くしてある。色を散らさず同色系統で
揃えられた背景もいい。
無造作に積まれた二冊の本と一冊の手帳の紙の白さが、ランプの存在を安定させている。
このほのかな美は、写真機では決して捉えられまい。
何気なく描かれたように見えながら、非の打ち所がない構図だ。すでに一流画家の作品と言える。
ランプに見覚えがある気もしたが、青木は貧しいくせに小洒落たランプを下宿に持っていたのか。
それとも、誰かから借り、夜通し構図を考え尽くして描き上げたのか。
興が乗らないと一切描かないくせに、いったん描き始めると、青木の絵筆は神速だった。
「この前、和田に会いに黒田邸へ行った時、食卓の上に感じのいいランプがあったんだ。そいつを
描いた」
和田は衝撃を受けた。
黒田家の立派な食卓の上には、フランス製のランプがあった。だが青木は、和田の部屋へ向かう
途中、食堂を通り過ぎただけだ。一瞥のみで、見事に特徴を捉えたというのか。
しかも青木は、昨夕まで図書館で異国の神話を読み耽り、課題を完全に忘れていた。目の前に
実物もないのに、あれから一晩で、記憶と空想で描き上げたのだ。
「青木君。なかなかの出来だよ」
満足そうに頷く藤島は、学生を自分と比べているのか、一様に作品の評価が厳しく、まず褒めないが、
青木だけは例外だった。青木の図抜けた画才を認め、わがままさえ許している。弟子というより、すでに
同業のライヴァルとして見ている気がした。
2025年10月21日
<鬼才 17
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 8>
藤島が教室に現れ、夏季休暇の最後の授業が始まっても、青木は姿を見せなかった。
今では和田も、青木の席から少し離れて座っている。
最前列の特等席を譲ったのは、青木が臭う事情も大きいが、そばにいると、あの痩せた手が伸びてきて、
勝手に絵具や筆を持ってゆく。
青木には自他の区別がないのか、他人の持ち物も平気で自分の絵具箱へ入れてしまうから、始末に
負えなかった。
驚くべきことに、本人は全く悪気がない様子で、善意にも感謝さえしなかった。自分が一番絵が巧い
のだから、周りが協力するのは当たり前だと、本気で思い込んでいるらしかった。
藤島の指名で画学生は順に皆の前へ出、教授と同期生たちに作品を示しながら、自作につき自由に
語ってゆく。
モチーフの選定からテーマの設定、構図、配色の工夫、陰影の強弱、こだわりの技法など、それぞれが
蘊蓄を披露する。
入学年度の一番浅い和田を残した時、胸を張って遅刻してきた学生がいた。
手には一枚のワットマン紙を持っている。
青木は黙って藤島に軽く会釈してから、堂々と特等席に座った。
藤島は和田をちらりと見てから、幾分呆れ顔で青木に尋ねる。
「君のほうが和田君より少し先輩だが、先にやるかね?」
青木は頷き、自信たっぷりに前へ出ると、同期生に見せつけるように、作品を持つ右手を突き出した。
一斉にどよめきが起こる。
皆の目が一枚の絵に釘付けになった。
和田が藤島を見ると、明らかに顔つきが変わっている。
「画題は<ランプ>だ。皆がどんな絵を描いたのか知らねぇけど、当然これが一番だろう」
確かに、一見しただけで、群を抜いていると、和田も認めざるをえなかった。
2025年10月18日
<鬼才 16
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 7>
青木は怪訝そうな顔で、和田の顔をじっと見つめていた。えてして天才という生き物は、
ごく些細な当たり前のことができぬらしい。
「参造、教えろ。何だ、その課題って奴は?」
落第すると、学費も生活費も余計にかかるから、極貧の青木にとっては死活問題のはずだった。
その割には自由奔放で、締め切りも校則もろくに守らないのだが。
「静物を描けって課題さ。大きさは4号までで、水彩を推奨」
ははーんと、ようやく思い出した顔をした青木がボサボサ髪を掻くと、フケが派手にに散った。
和田は心持ち身を引く。
「すっかり忘れてたな。期限はいつまでだ?」
「明日の朝一番の授業で提出だよ」
「ヴェーダの面白い所だったのによ。この机の上の本、戻しておいてくれ」
ゆらりと立ち上がった青木は、和田をを押しのけて閲覧室を出て行く。
「ちょっと、青木!」
青木は胸を反らして大股で歩み去る。
ふんぞり返った後ろ姿を見ながら、和田は内心、今回こそ必ず青木に勝てるとほくそ笑んだ。
作品で勝つために、作品で勝つために、臨席の誼であえて前日に教えてやったのだ。
✟
翌日、和田は教室へ一番乗りした。
自宅で黒田の指導も受けながら、たっぷりひと月かけて、黒田邸の応接間にある木製の肘付き椅子
を描いた。
洋風の木彫りや布張りの模様まで精密に描写してあるが、背もたれに立てかけられた本の鮮やかな
赤が目を引く、会心の自信作だ。
同期生が登校してくるたび、互いに課題の作品を見せ合った。
表向きは褒め合うものの、和田は内心で自作が一番優れているとの確信を深めていた。
2025年10月17日
<鬼才 15
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 6>
「午後からは黒田主任教授の授業だ。青木もそろそろ顔を出したほうがいいんじゃないのか?」
心配そうに声をかける熊谷守和は、青木に次ぐ確かな画力があった。
「どうしてだ、モリ? 藤島はともかく、俺が黒田から何を学ぶってんだ?
ラファエル・コランの焼き直しに、どんな値打ちがある?」
手元の横文字の本へ戻り、顔も上げずに答える青木に、熊谷は諦め顔で同期生たちを顧みた。
黒田作品は、パリ時代の師コランに負うところも大きいが、一面的で酷評に過ぎるだろう。
青木はそうも黒田と相性が合わないらしい。
黒田が教室に入ってきて学生の絵を見ようとすると、青木は懐手をしてツイと出て行ってしまい、
黒田がいなくなる頃にガラリと戸を開けて戻ってくる。
周囲の迷惑になるからと言って高木が先頭に立ち、図書館の玄関を出ながら、画学生たちが
口々に言う。
「教授陣も、青木には甘いからな」
「だけど、あれで青木は、黒田教授の作品を結構研究してるんだよ・・・」
和田は悔しかった。
世は不公平だ。なぜ天は青木にのみ、あり余る才能を与えたのだ?
自他共に認める天才青木に対し、和田は努力家の秀才だ。青木はさしたる努力もせず、和田の
何歩も先を、悠然と歩いていたーー。
青木はぎっしりと横文字が並ぶ書物を読み耽り、背後に立つ和田に気付いてもいなかった。
「今日も授業を休んだね。いくら青木繁でも、課題を出さなきゃ、落第するかも知れないぜ」
周りに人はいないが、近づいて声を潜めると、青木が「はん?」と応じた。
「課題って、何の話だ?」
現実世界へ引き戻された青木は口を尖らせ、いかにも不機嫌そうだ。
「藤島教授がひと月ほど前に出された課題だよ。もう描き終えたのかい?」
2025年10月16日
<鬼才 14
赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 5>
和田が上野図書館に入ると、知の殿堂らしく、ひんやりとして厳かな空気が漂っていた。
二階へ上がり、高い天井の特別閲覧室まで歩を進めた。
この前、青木が陣取っていた窓際の一角へ向かう。
案の定、机上に20冊ばかりの本で壁を作る学生がいた。
和田がこれまで会った人間の中で、青木繁は文句なく最もずさんな人間だが、不思議なことに何かに
集中している時は、惚れ惚れするほど背筋がピンと伸ばされ、美しい姿勢をしていた。
「青木は、今日も神話の研究かい?」
書物の中に入り込んでいるらしく、青木からは反応がない。
ここ数日、青木がまた授業に出なくなった。
ちゃんと生きているのか確かめようと節介焼きの高木巌が言い出し、同期で探したところ、美校の
向かいにある上野図書館で青木が発見された。
記紀はもちろん、ヴェーダに新旧聖書、さらにその研究書を片っ端から読み漁っているらしい。
洋書を当たり前に読んでいたため、驚いて尋ねると、見ているうちに読めるようになったという。
講釈を垂れるように、青木は同期生に滔々と語り出したものだーー。
「俺の技巧はすでに教授連中と比べて遜色ない。同じレヴェルの奴から学んでも上達しねぇさ。
今の俺に足りねぇのは、題材だ。西洋の連中にはギリシャ・ローマの神話があり、聖書があった。
だから、あれほど芳醇な絵を描けたんだ。だけど日本も、神話の時代から2500年なんなんとする
歴史を持つ国じゃねぇか。負けられるかよ」
同期の高木がなるほどといった顔をして青木を見つめていた。男気のある好男子ながら、絵の
腕前はさっぱりだ。
だが、下を見ているようでは、和田も先が知れるというものだ。
2025年10月15日
<社会保障と税、安保、教育など 公明がめざす社会築く 中道改革を追求、結集の軸に>
<自公 政策協議 結果を報告>
・・・斎藤代表は、政策協議の対応について・・・「(政治資金の)不記載問題に関する自民党の
基本姿勢と企業・団体献金の規制強化について、しかるべき答えがなければ、政策協議はなしえないと
いうのが一任を受けた時の皆さんの基本的な考えだと決意して協議に臨んだ」と説明した。・・・・
2025年10月15日
<鬼才 13 赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 4>
画力は黒田をも凌ぐとされる実力派の藤島は、主に実技を担当する。
藤島にデッサン力を認められるか否かは、和田にとって当面の重要な試金石だった。だがその日、和田は
いきなり青木に打ちのめされた。
画学生たちがギリシャ風彫刻の石膏像の周りに席を移動して描き始めたので、いきがかり上、和田は
青木と隣り合わせになった。
青木は和田のすぐ隣で、紙にさらさらと木炭を走らせ始めたかと思うと、アッという間に仕上げて
しまったのである。
改めて「石膏ばっかりで詰まらねぇ」吐き捨ててから、ふんぞり返って教室を出て行った。和田はまだ
輪郭を描いている最中だった。
藤島も学生たちも「青木は別だから」と言わんばかりの訳知り顔で、微苦笑を浮かべている。
隣の椅子の上に無造作に置かれた青木のデッサンをちらりと盗み見て、和田は唖然とした。
驚異的に正確な描写だった。
毛髪の激しいうねりから、伏せ目がちの眼差し、何か物言いたげな笑みを浮かべる唇、ふっくらした
顎にできた短い皺、年季による石膏のひびや欠けに至るまで、明暗を織り交ぜながら質感たっぷりに
表現してあった。間近でつぶさに見なければ、写真と区別がつかない者もいるだろう。
「自分が納得するまで描いていい」と藤島が言い、優秀な画学生たちが午後たっぷり時間をかけても、
青木が30分足らずで仕上げた精確なデッサンには、誰も及ばなかったーー。
あの日あの時から、和田は打倒青木を心に誓った。
以来毎日、必ず何かのデッサンを一つこなすと決意し、実行してきた。
黒田に見せると褒められたが、まだまだ青木の足元にも及ばないと、自分が一番よくわかっていた。
それでも、たゆまぬ努力を詰め重ねてゆけば、きっと追いつけるはずだ。そして、追い越して見せる。
2025年10月14日
<鬼才 12 赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 3>
(こいつが青木繁、なのか・・・・)
すぐ隣の席に座る、臭う同期生を、和田は改めてまじまじと見た。
胸を反らせて偉そうに腕を組み、分厚い楕円眼鏡の向こうで大きな眼をギラつかせている。
入学年次こそ遅れたものの、和田は強運に恵まれて、黒田の差配で飛び級を認められた。それだけでは
ない。何と、住み込みの書生として、赤坂の黒田邸で暮らすことまで認められたのである。
幸い、実家からの仕送りも十分にあるので金の心配はなく、絵だけに専念できる境涯にあった。
「美校を主席で卒業して見せます」と、公言する和田に、黒田は素っ気なくかぶりを振った。
曰く、この期の西洋画科は粒揃いで、彼らの多くが、未来の画壇を背負って立つに違いない。
その中でも、別格の境地に遊ぶ天才が一人いる。彼の才能が順調に花開けば、本場の欧州でも十二分に
通用するはずだ。世界の美術史に名を残すかも知れない、と。
それが、青木繁だった。
「おいおい、また石膏デッサンなのかよ、先生。俺は生の裸婦モデルが一番好みなんだがな」
青木は教室に入ってきた教授に馴れ馴れしく話しかけ、ハッ、ハッ、ハッと大笑いした。
尊大と言おうか、随分変わった笑い方で、青木は大口を開き、ひと声ずつ区切って腹の底から声を
出すのだ。
聞いただけでは、笑っているのか、あるいは発声の練習でもしているのか、判然としないほどだ。
教室の皆は釣られて笑うが、和田だけは決して同調しなかった。
「青木君、モデルを雇うのもただじゃないんだ。文句を言うのは、授業料を払ってからにしてくれたまえ」
上品に微笑みながら切り返した洋装の紳士は藤島武爾である。
2025年10月13日
<鬼才 11 赤神諒 第Ⅰ章 ランプ 2>
和田にとって美校で初めての授業が終わった後、汚い姿形の痩身長躯の学生が教室に入ってきた。
虱の巣になっていそうなボサボサ髪で、すり切れた久留米絣の単衣は異臭さえ放っていた。
偉業の風体の若者は、見慣れぬ和田の顔を認めると、眼をギラつかせながら、ぶっきら棒に「俺の
席だ。どいてくれ」と言い放った。
「どうして変わらなきゃいけないんだ?他にも席はあるじゃないか」
和田がムッとして反問すると、久留米絣はさも不思議そうな表情で見返しながら、さらりと言って
のけた。
「決まってるだろう。俺のほうがお前より絵が巧いからだ」
予期せざる返答に呆気にとられた後、和田の腹の底から、ふつふつと怒りが込み上げてきた。
何と理不尽な言い草か。
見ず知らずなのに、なぜ絵の優劣がわかるのだ?
和田も、反対する親を説き伏せて尋常中学校を中退し、西洋画で天下を取る心意気で、福岡から
上京してきた身だ。
座席は自由だから、替わってやる必要などない。「断る」と意地になって拒否すると、ボサボサ髪は
後ろのほうから椅子を持ってきて、和田のすぐ隣に置き、どっかと座った。
「仕方ねぇな。じゃあ、ちょいと狭くなるが、俺の机で仲良くやろうぜ」
皓歯を見せて笑う顔に思わぬ愛嬌があり、和田の立腹も勢いを失ってしまった。
「青木は、今年も西洋美術史の授業には出ないつもりかい?」
同期生の熊谷守和との会話で、その汚い学生が噂に聞く青木繫だとわかると、和田は一瞬たじろいだ。
が、すぐに競争心を燃え上がらせた。
「ああ、時間の無駄だよ。長坂より、俺のほうが数等詳しいからな。モリも奴の授業なんかやめて、
俺と図書館で学ぶほうがためになるぞ」
2025年10月11日
<鬼才 10
(第Ⅰ部)光あれ 第Ⅰ章 ランプ 1>
一 和田参造 1
ーーー明治34年(1901)7月、
東京上野・東京美術学校(19歳)
烈しい真夏の太陽の照り返しも、和田は全く気にならなかった。
息を弾ませながら、酷暑で人も疎らな上野公園を足早に横切ってゆく。
(青木の奴、どこにいやがるんだ)
同期生のライヴァル、青木繁gどこで何をやっているのか、和田は気になって仕方がなかった。
(博物館のはいない。とすると、今日は図書館か)
昨日の青木は、帝室博物館で奈良、平安時代の伎楽面や舞楽面と睨み合っていた。鉛筆書きに
一部を水彩で着色しただけのスケッチなのに、本物がその場にあるのかごとき抜群の描写力に、
和田は内心で舌を巻いた。
上野図書館の片隅に陣取り、借りた書物を積み上げる青木の姿は、東京美術学校(現在の
東京藝術大学)西洋画科の学生にはとても見えない。
明治22年に創設された官立美術学校では日本画や彫刻に遅れて、5年前に西洋画科が
設けられた。
黒田晴輝がその洋画主任教授として君臨し、久米圭一郎、岡田五郎助、藤島武爾ら日本洋画界
の錚々たる重鎮が揃い踏みしている。
最初、和田は青木が大嫌いだった。いや、別に今も好きではない。
だいたい、驕慢なあの男を初対面で好きになる人間など、この世にいまい。
二人の出会いは、教室の座席を巡る些細な口論で始まった。
後で知った話だが、青木はかなり目が悪いらしく、開港以来、気が向いて授業に出る時は、
ずっと教室最前列の真ん中に座っていた。
遅れて美校へ入学した和田は、そんなことは梅知らず、青木繁の特等席に座ってしまったわけで
ある。着席は自由だから、もちらん和田には非もないのだが。
2025年10月03日
<『ふたりの祖国』連載を終えて
作家 安部龍太郎>
満州事変から日米開戦まで
徳富蘇峰と朝河貫一に焦点
片やイェール大学歴史教授の朝河貫一。こなた戦前の日本の言論界の大立て者だった徳富蘇峰。
この二人を主人公に、昭和6年の満州事変から昭和16年の日米開戦までの物語を書こうと思った。
理由は2つ。ひとつは大正3年生まれの父が生きた時代を見つめ直し、日本はなぜアジア・太平洋
戦争に突入したのか明らかにしたかったこと。もうひとつは昭和30年生まれの歴史小説家として、
この時代を書いておく責任があると思ったことである。
だが古代や中世、近世の物語を中心に小説を書いてきた私にとって、戦前をテーマにするのは
きわめてハードルが高い難しい仕事である。それでもなお挑戦しようと決意したのは、国際関係史の
観点から朝河貫一の研究をつづけておられる早稲田大学教授の浅野豊美先生に勧めていただいたからだ。
「私が監修者としてセーフティネットを張りますから、思いっきり書いて下さい」
有難い励ましをいただき、この機会を逃すわけにはいかないと思った。
その決断を支えたのは、佐藤優氏と『対決!日本史』で6巻にわたって対談をしてきたことだ。
外務省の主任分析官だった佐藤氏の知見と経験、世界観などをうかがううちに、政治や外交について
目を開かれることがいくつもあった。
朝河のような偉大な学者を小説に描くには、私の学識や経験は圧倒的に不足している。
彼の著作への理解は充分とは言えないし、およそ百年前のイェール大学でどのような生活を
していたかもよく分からない。
こうした困難を緩和してくれたのは、一方の主人公として徳富蘇峰を取り上げたことだ。蘇峰は
今でも右翼的な言論人として批判されることが多いが、彼の著作や各種のコラムは実に面白かった。
ドン・キホーテのような蘇峰を楽しんで描けたことで、ハムレット的な朝河と向き合う気力と心の
余裕を取りもどすことができた。蘇峰の資料については、神奈川県二宮町の徳富蘇峰記念館(今は資料館)
にお世話になったことを明記し、お礼を申し上げたい。
この小説を書きながら痛感したのは、我々戦後世代がいかに戦前の歴史を学んでいないかという
ことである。それは個人の勉強不足というレベルの問題ではなく、国家の教育によって意図的に伏せたり
改変したりして、不都合な真実をおおい隠していることに根本的な原因がある。
物語を書き終えて思うのは人間の無力である。陸軍の輜重兵(物質輸送を担当する兵士)として中国の
南京占領に従軍していた父に、その時の体験についてたずねると、「あげんなったら、普通じゃおられん」と
ぼそりと言った。
国家が強大な権力を持って間違った方向に暴走を始めたなら、それを阻止するのは容易なことでは
ない。「そうなる前に、我々に何が出来るのか」
この物語を読んでいあただいたことが、それを考えるきっかけになったとすれば、望外の幸せである。
2025年09月30日
<ふたりの祖国 347
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 59>
セイブルックカレッジの玄関口に着いた時、ヘンリー・ナンブに呼び止められた。ふり返ると
ヘンリーとオリーブが、ポプラ並木の下を走り寄ってきた。
「先生、ゆっくりご挨拶もできすにすいません」
「こちらこそだよ。君のお陰で大統領親書が天皇に渡らずにすんだ」
「それを日本計画に盛り込んだのは、スティムソン長官たちの自己弁護でしょう。本当は天皇に
戦争責任を負わせようとしたのに」
「その方針を変えさせることができたのだから、良しとすべしだよ。問題はこの先の日本をどう
導くかだ」
「先生、私たちお付き合いすることができたのだから、良しとすべしだよ。問題はこの先の日本を
どう導くかだ」
「先生、私たちお付き合いすることになりました。先のことは分かりませんが」
ブロンドの髪を美しくカールしたオリーブが、2人の話に割り込んできた。
「それはおめでとう。イナもヘレンも喜ぶだろう」
「でもこの人、来月にはオーストラリアに赴任するんですよ」
オリーブがうらめしげにヘンリーを見やった。
「実はマッカーサー司令官から、反攻作戦のために情報収集に協力してほしいという要請が
ありましたので」
「そうか。一日も早くこの戦争が終り、2人が一緒にいられるように祈っているよ」
その祈りが天に通じた訳ではないだろうが、2日後に始まったミッドウェー海戦で日本軍は
主力空母4隻を失う大敗を喫し、勝敗の帰趨はほぼ決定したのだった。
具輩の一人語りもこれでひとまず幕とさせていただくが、最後に朝河が戦後日本の復興に
ついて記した手紙の一節を紹介させていただきたい。
「(終戦後に)日本国は、このような一大再生事業を行なえるだけの能力を十分に持っています。
ちょうど両大戦間のヨーロッパがそうであったように、精神的弛緩さえ生じなければ、その他の
事柄も順を追って改革され、絶え間なく前進していくことでしょう」(1944年10月2日、
アーヴィング・フィッシャー宛)
長い間ご愛読いただき、ありがとうございました。
2025年09月29日
<ふたりの祖国 346
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 58>
第三項の目的は、日本の政府と国民の間に分裂を作り出すことだが、そのためには天皇と
軍部を切り離すことが必要だと指摘する。その方策についても、十項目以上を列挙していた。
<a、日本人に対して、彼らの現在の軍事的指導者たちが、明治天皇(1867ー1912年
統治)が道を拓いた行程から大きく逸脱し、現在の天皇の望むところとは正反対の道に迷い
込んだことを指摘すること>
これに関連してb項では、開戦直前にルーズベルト大統領から昭和天皇に送った親書が
届けられなかったことを問題視し、宣戦布告なき真珠湾攻撃が天皇の和平努力に逆らった
軍部の暴走だったと宣伝すべきだと言う。
これらは天皇に戦争責任はないとアメリカが認めるきっかけとなった方針で、朝河らの主張が
容れられた結果だった。
そしてj項には、<日本人に民主的平和が彼らに安心と繁栄をもたらすことを説得すること>
とあり、次のように記されている。
<民主主義とは政治的であると共に経済的なものであり、軍部の独占が打倒されたあかつきのは、
普通の日本人は自由で正直な生活を送ることができる>(「日本計画」のついては、加藤哲郎著
『象徴天皇制の起源』平凡社新書を参照させていただきました)
シャーマン・ケントが要点を読み上げた後、この草稿について討議したが、大きな修正を求める
意見はなかった。
「それではこれを最終案として了承すると、陸軍省心理作戦課のソルバート大佐に伝えておきます。
ご協力、ありがとうございました」
ケントが会議の終りを告げると、朝河はメンバーに会釈をして逃げるように部屋を出た。
終戦後の日本を天皇を中心とした民主主義国家に再生するという道筋をつけることができたものの、
「日本計画」は日本を打ち破るために宣伝戦に用いるものである。
それに加担するのは祖国を裏切るも同じだという忸怩たる思いがあって、体の芯までぐったりと
疲れている。誰とも話したくない気分だった。
2025年09月27日
<ふたりの祖国 346
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 57>
日本再生検討委員会の第三回会合は、6月3日の午前10時からイェール大学で行われた。
ワシントンの陸軍心理戦争課から送付されてきた草案には、「日本計画」という素っ気ない
タイトルがつけられている。これを審議し、問題点を洗い出すのが検討会の役目だった。
出席者は後に、ハーバード大学で日本研究の中心となり、駐日大使になるエドウィン・
ライシャワー。ニューヨークのコロンビア大学で、ドナルド・キートンをはじめとする
日本研究者を育てたヒュー・ボートン。ロックフェラー財団の人文部長を務めるチャールズ・
B・ファーズ。そして戦争から日本の文化財を守るために奔走したラングドン・ウォーナーと
富田幸次郎である。
朝河はアドバイザーとして会議に同席したが、この日は初めての出席者がいた。陸軍省の
分析官になったオリーブ・パリッシュと、フィリピンでの任務を終えたヘンリー・ナンブが
OSSのメンバーになり、朝河の推薦によって検討会に加わったのだった。
「それでは日本計画の第ニ草案の検討を始めます。訂正すべき点がなければ、第三稿が最終案に
なります。なお資料は部外秘ですから、検討が終わったら回収させていただきます」
あらかじめ断ってから、ケントが草案の要点を読み上げた。ちなみに彼はOSSの後身である
中央情報局(CIA)で国家評価局の局長となり、「情報分析の父」と評されるようになる。
「まず四つの政策目標です」1、日本の軍事作戦を妨害し、日本軍の士気を傷つける。2、
日本の戦争努力を弱め、スローダウンさせる。3、日本軍当局の信頼をおとしめ、打倒させる。
4、日本とその同盟国及び中立国を、分裂させる」
そうした目標を達成するために八つの宣伝目的が設定されているが、その中でも朝河らの
主張を反映して策定されたのが第三項である。
<日本の民衆に、彼らの現在の政府は彼らの利益には役立たないと確信させ、普通の人々が、
政府の敗北が彼ら自身の敗北であるとはみなさないようにすること>
2025年09月26日
<ふたりの祖国 345
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 56>
「それも問題なく認められました。しかしCOI(情報調整局)に加わる時は、日本委員会と
してではなく個人の資格で加わってほしいそうだ。COIがACLSと対立するような事態は避け
たいからね」
「それならシャーマン・ケント君をリーダーにして、イェール大学内の勉強会という形に
したらどうだろうか」
ケントはイェール大学の歴史学部出身で、朝河から比較法制史の講義を受けた教え子である。
しかもすでにCOIのメンバーとしてヨーロッパの情報分析を担当していた。
「それはいい。他のはどんなメンバーを考えているのかね」
「今のところはこの5人だ」
朝河は用意していたリストを渡した。
ヒュー・ボートン、エドウィン・ライシャワー、チャールズ・B・ファーズ。この3人は
東京大学で辻善之助に学んだ日本研究者である。それにラングドン・ウォーナーとボストン美術館の
富田幸次郎だった。
「立派なメンバーだ。これはイェール大学内の特別ゼミということにしよう。貫一にも是非
参加してもらいたい」
「私は無理だよ。君も知っての通り、6月には定年退職で大学をさる身だからね」
朝河は今年の12月20日で満70歳を迎えるので、この6月が定年と定められていた。
「それでも名誉教授には推されるはずだ。非公式にでも関わってくれないと困るよ」
「求められたらアドバイスはさせてもらう。何とかこのプロジェクトを成功させたいからね」
シャーマン・ケントを座長とする日本再生検討会の第一回草案は5月13日にまとまり、
陸軍心理戦争課長のソルバート大佐に提出された。
これを修正した第ニ回草案は5月23日にまとまり、同じくソルバートの決裁にゆだねられたが、
6月からCOIは戦略情報局(OSS)に改組され、予算も人員も飛躍的に増えた。予算は1億1554万
ドル、スタッフは1万2718人。日本やドイツとの戦争に勝ち抜くには、情報収集と情報の
的確な分析が何より重要だと認識されていたのだった。
2025年09月25日
<ふたりの祖国 344
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 55>
「この戦争が日本の敗北で終わることは間違いない。その時日本は大きな痛手を受け、
復興のための莫大な予算を必要とするはずだ」
「なるほど、それを我が国の金融機関が貸し付けるということか」
「債権にしろ株にしろ、その投資は日本の復興と共に価値が高まり、何倍にもなって
出資者に返ってくる」
そのためにも天皇を中心とした日本の安定的な統治と、アメリカ並みの民主主義社会を
実現する必要があると、スティムソンに伝えてほしい。朝河は双刃の剣になると承知しながら
申し入れた。
「貫一、それは経済学者でもなかなか思いつかない最適解だよ。大統領や陸軍長官もきっと
耳を傾けるだろう」
スティムソンは資料を入れたバックを下げ、15分後にあわただしく部屋を出て行った。
朝河が双刃の剣になると思ったのは、戦後の日本への投資が、アメリカを背後で操る勢力
の戦争目的になりかねないという懸念があったからである。
そのために都市も産業も容赦なく破壊され、日本は莫大な復興資金を借り入れざるを
得ない立場に追い込まれる。そして何十年もの間債務奴隷のような状態におちいり、復興の
果実はすべて債権者に吸い上げられかねないのである。
だが、終戦後にも天皇を守り、民主主義社会を実現するには、こうした提案をするしか
方法がないのだった。
1週間後、フィッシャーが意欲揚々とワシントンから戻ってきた。
「貫一、大統領もスティムソンも終戦後の日本への投資について大いに関心を示したよ。
そのためには日本のすみやかな復興が必要だということも理解してくれた。ただし・・・」
これは私の立案ということにさせてもらったと、フィッシャーが申し訳なさそうに付け加えた。
「私はそれで構わないよ。それでCOIの件は了解してもらえただろうね」
朝河が気にかけているのは、こちらの問題だった。
2025年09月24日
<ふたりの祖国 343
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 54>
「おはよう、アーヴィング。今日は君の助けを借りたくて訪ねて来た」
朝河は努めて快活に申し入れた。
「それは嬉しい限りだが、これからワシントンに出かけるところでね」
フィッシャーはちらりと時計を見て、15分だけなら大丈夫だと言った。
「政府の用かい。ワシントンは」
「わが国は戦争に勝ち抜くための財政運営に切り替え、民間経済への圧力を強めつつある。
議会は兵器増産のために520億ドルの予算を承認したが、一方で民間用の乗用車の生産を
停止するように命じた。こうした措置が今後のアメリカ経済にどのような影響を与えるか。
研究者を集めて予測を立てよという依頼、というより命令だ」
「ならば手っ取り早くお願いするが、ACLSの日本委員会のメンバーをCOIに加えるように、
スティムソン陸軍長官に頼んでみらいたい」
「その目的は?」
「日本との戦争に有効な情報のやり方、終戦後の日本統治のあり方について、日本委員会は
これまで研究を重ねてきた。その成果をCOIを通じて政府の方針に反映したいのだ」
「それは意義あることだが、スティムソンは大統領親書のことで君に不信感を持っている。
開戦前に親書を大統領に届けることができなかったのは、君と国務省のヘンリー・ナンブのせい
だと疑っているようだ」
「私にはそのような力はないよ。ただ、私が起草した親書の草案が骨抜きにされ、天皇に
戦争責任を負わせる目的で書き替えられたことは、承服し難いと思っていた。それは事実だ」
「あれには複雑な事情があってね。君にも推測できると思うが」
「終戦後の日本統治の方法なら、天皇を力で押さえ付けるよりももっと建設的で有効な方法が
ある。それこそ君の専門分野ではないか」
朝河はフィッシャーがスティムソンらとつながっていることを承知で水を向けた。
「経済的な問題、ということだろうか」
案の定、フィッシャーが興味を引かれて身を乗り出した。
2025年09月23日
<ふたりの祖国 342
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 53>
「暴論だという理由は3つあります。1つは2000年近く続いてきた天皇家の歴史の中で、
天皇が政治的、軍事的な実権をもたれた時代はきわめて短いこと。一つは満州事変以後、天皇は
一貫して軍部の暴走を止めようと努力してこられたこと」
そしてもう1つは、日本民族は天皇という統合の象徴を失ったなら、一元的に統治することが
できなくなることだ。たとえ敗戦後でも、日本人は天皇の命令以外には従わないだろう。朝河は歴史
学的な事例を示してそう説いた。
「つまりアメリカの占領軍が直接命令を下すより、天皇を通じて命じた方が効果は大きいと
いうことですね」
ウォーナーが大きくうなずき、これは政府や軍を説得する論拠になると手元の議事録に書き込んだ。
しかし問題はこうした提言をどこに伝え、政策に反映させるかである。その問題に話が移ると、
「それなら大統領直属の情報調整局(COIーoffice of the Coordinator of information)はどうでしょうか」
ライシャワーが遠慮がちに提案した。そこには国務省に出向していた頃に知り合った職員が何人もいる
という。
「COIはもうすぐ戦略情報局(OSSーoffice of Strategic Services)に改組され、他省庁から数多くの
人材を集めると聞いた。そこにパイプをつなげれば、ACLS(全米学術団体評議会)を通すより話が早く
進むはずだ」
ウォーナーもライシャワーに同意したが、パイプをうまくつなぐには誰に仲介役を頼めばいいかが
問題だった。
朝河には心当たりが一人だけいる。だがこれまでにも複雑ないきさつがある相手なので決心をつけかねて
いたが、4月18日に日本が早くも米軍機の空襲を受けた。
ドーリットル中佐が指揮するB-25爆撃機16機が、東京、名古屋、神戸を爆撃したという報道があり、
日本の敗戦は間近だという噂が飛び交った。
だとすればためらっている場合ではない。そう決意してアーヴィング・フィッシャーの部屋のドアを
叩いた。
2025年09月22日
<英、パレスチナ国家承認へ 報道 G7初、イスラエルに圧力>
[ロンドン時事]英メディアによると、スターマー首相は21日、英国がパレスチナを国家承認すると
発表する。承認は先進7カ国(G7)で初。・・・・・・
2025年09月22日
<ふたりの祖国 341
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 52>
4人はさっそく顔を突き合わせて日本委員会の会議を始めた。
「我々は以前、4項目の研究目標を立てました。そのうちの第2項と第4項を優先するべきだと
思います」
ウォーナーが議事録を確かめながら進行役をつとめた。
第2項は日本人の民族性を踏まえて戦争中の行動を予測すること。第4項は日本敗北後の再建策を
立案することだった。
「それに関して提案があります。この戦争に日本が敗れることは、以前から申し上げている通りです。
そこで・・・」
朝河は重い口を開き、第2項はこの戦争を早く終わらせるために情報戦略。第4項は終戦後の天皇の
処置を中心に討議をしていただきたいと申し出た。
「事態が逼迫しておりますから、3人とも依存はありません。その問題について朝河教授はどう
考えておられるか、お聞かせいただけますか」
「第2項については、日本国民と軍部の分断をはかることを優先すべきだと思います。この戦争は
1931年の満州事変以来、軍部が天皇の反対を押し切って始めたものです。その背景には石原莞爾が
となえた日米の最終戦争論がありました。このことを日本国民に理解させ、アメリカが日本と戦って
いるのは天皇と日本国民を軍部の独裁から解放するためだと主張して、日本の世論を反戦に導かなければ
なりません。」
ウォーナーが念を押した。
「おっしゃる通りで、それは第4項についても同様です。戦勝によって狂信的な軍部を排除し、天皇を
中心とした立憲君主制のもとで、日本を民主的な平和国家に再生しなければなりません」
「政治学者の中には、天皇制を廃止しなければ民主主義体制は築けないと主張する方もいますが」
それについてどうお考えかと、ヒュー・ボートンがたずねた。
「それは日本の歴史と民族性を無視した暴論です」
朝河は即座に否定した。
2025年09月20日
<ふたりの祖国 340
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 51>
中でも困ったのは、貯金が封鎖されたことと旅行の自由が奪われたことだ。このため経済的な
窮地に追い込まれたし、学会などにも自由に参加することができなくなった。
朝河は日米戦争による日本の被害を軽減するために、ACJS(アメリカ学術団体評議会)の
日本委員会を通じて、戦争中の日本向け対策と、終戦後の日本統治についてアメリカ政府に
提言したいと考えていた。
そのためにはポストのフォッグ美術館に行ってラングドン・ウォーナーたちと打ち合わせを
しなければならなかったが、資金と行動の自由を奪われてはどうじょうもない。学生寮の一室から
日本委員会のメンバーに電話をかけて考えを伝えるしかなかったが、盗聴されている恐れが
あるので自由に語り合うことはできなかった。
3月中頃、日本軍の攻勢によってフィリピンが陥落し、マッカーサー極東軍司令官が
コレヒドール島からオーストラリアに脱出した。その報道に全米が騒然となる中、ウォーナーが
ヒュー・ボートンとエドウィン・ライシャワーを連れて朝河の研究室を訪ねてきた。
「教授はニューヘイヴンから出られない状況だと伺いましたので、我々の方から押し掛けて来ました。
ライシャワー君も誘ったところ、ハーバード大学から駆けつけてくれました」
ウォーナーが万感の思いを込めて朝河の手を握りしめた。
ライシャワーは日本で生まれた親日派で、1935年(昭和10年)に東京大学の研究生になり、
ボートンらと共に辻善之助らの指導を受けていた。歳はボートンより7つ下の32だった。
「ライシャワー君、忙しい時にありがとう。国務省に出向していたと聞いたが」
「ようやく解放されて大学にもどったのですが、今度は陸軍通信隊で日本語の翻訳と暗号の解読を
することになりそうです」
日本との戦争が始まったために、日本語と東洋史に詳しいライシャワーは各方面から助力を求め
られているのだった。
2025年09月19日
<ふたりの祖国 339
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 50>
日米戦争の開始により、アメリカ国内での反日世論は激烈になった。
中でも日本が宣戦布告の前に真珠湾を攻撃し、太平洋艦隊とアメリカ軍事基地に甚大な被害を
与えたことが、アメリカ国民の怒りと復讐心に火をつけた。
開戦前まではアメリカ国民の多くは日本との戦争に反対していたが、「真珠湾を忘れるな(
リメンバー パール ハーバー)」を合言葉、一致団結して戦争に邁進することになった。
このためにアメリカ在住の日本人や日系人に対する差別や規制は強化され、生活の不便ばかりか
身の危険さえ感じるようになった。
それを象徴するのが、ルーズベルト大統領が1942年2月19日に発した「大統領令9066号」
である。
これによって陸軍長官スティムソンに特定地域を軍管理地域に指定する権限が与えられ、軍が
必要と判断した場合には敵性と見なした住民を強制的に立ち退かせることができるようになった。
この命令に国籍や人種の指定はなかったが、「敵となる外国に祖先を持つ者」が対象とされ、
アメリカ西海岸に住む日系人約12万人が、内陸部の劣悪な環境に設置された強制収容所に
移動させられた。
この頃日本軍は攻勢をつづけており、やがて西海岸に上陸するのではないかと政府や軍は警戒して
いた。そうなった時に、日系人は日本軍に協力して撹乱工作を行うのではないかという疑念に駆られ、
憲法にも人道にも背いた措置を取ったのだった。
こうした圧力は、イェール大学のセイブルックカレッジに住む朝河貫一にも及んでいた。朝河は
この年1月21日に友人のローウェルにあてた手紙に次のように記している。
「戦争のためにいろいろ不便を蒙っているではないかとご心配いただき感謝しております。貯金が
封鎖されたり、身分証明書を登録して終始携帯しなければならなかったり、旅行をするには申請を
したりなど、いくぶんの不便はあります」
朝河は相手に心配をかけないように控え目に書いているが、被害は深刻だった。
2025年09月18日
<ふたりの祖国 338
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 49>
12月8日午前6時に、ラジオで大本営陸海軍部発表が放送された。
「帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
同じく午後1時には、新しい戦果が報じられた。
「帝国海軍は本8日未明、ハワイ方面の米国艦隊ならびに航空兵力に対し、決死的
大空襲を敢行せり」
戦果は他の地域でもあった。
上海では英砲艦ベトレルを撃沈し、米砲艦ウェークを降伏させた。シンガポールを爆撃して
防塁を破壊したし、グアムの敵軍基地を爆撃した。
12月10日のマレー沖海戦においては、イギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズと
巡洋艦レバレスを撃沈した。
超大国と恐れられていた米英両国との緒戦の大勝利は日本国民を狂気させ、軍部に対する
支持と盲従を加速させた。
こうした異様な熱気の中、12月10日に小石川の後楽園において各新聞社共同主催の
「米英撃滅国民大会」が開かれた。蘇峰は『興亜の暁鐘』と題する基調講演を行い、開口一番
かく語った。
「何よりも先ず第一に、私は忠烈無双の我が皇軍の将兵各位に向かって、深厚なる感謝を捧げる
ものであります。今回の対米英の戦争は、大義名分が歴然としているところの義戦であります。
我らは東亜のために東亜を建設せんとする者であり、彼らは米英のための東亜として、飽くまでも
東亜を彼らの意の如くせんとする者であります」
蘇峰の熱のこもった明確な語り口に、集まった一万余の群衆が盛大な拍手と共感の声を上げた。
つづいて蘇峰は、今度の戦争の直接の原因はアメリカが中国からの全面撤退と日独伊三国同盟の
破棄、南京政府も満州国も認めないと通告してきたことにあると強調し、これと戦い抜くために
国民が一致団結しなければならないと訴えた。
「我ら一億の国民は、この興国の国難を、しっかりと手を繋いで乗り切ろうではありませんか。
今こそ興亜の暁鐘は鳴り響いて、輝かしい興亜の朝が明けようとしているのであります」
蘇峰の渾身の呼びかけに、会場は歓喜と興奮の坩堝と化したのだった。
2025年09月17日
<ふたりの祖国 337
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 48>
東條の言葉の意味を東郷も察している。そのまま宮中に向かえば午前2時頃には着いたかも
しれないが、いったん帰宅して礼服に改め、午前2時50分頃に宮中に着き、木戸内大臣に
天皇への拝謁を願った。
ちょうどその頃、ワシントンでは野村吉三郎大使らがアメリカ政府に宣戦の通告を渡して
いたのだった。
東郷が立ち去った後、蘇峰と東條は向き合ってソファに座った。航空部隊が真珠湾を攻撃するのは
午前3時30分頃である。その報告があるまで、夜を徹して待つことにした。
「いずれにしろ、親書の謀略は阻止することができた。首相の協力のお陰だよ」
蘇峰は久々に責任をはたした充実感にひたっていた。
これで心置きなく戦争に尽力できるし、たとえ負けたとしても仕方ないと諦めがつくような気がした。
「東坊も胸のつかえが取れました。これで迷いなく真っ直ぐに飛ぶことができます」
東條が別室から赤ワインの瓶を持ってきた。ドイツに駐在武官として赴任していた頃に買って
きたものだった。
「もう20年も前です。いつか記念の日に杯を上げようと、今日まで秘蔵していました」
「まだ早い。それにわしは酒は飲まん」
「それでは塩崎君、先生の代わりに君が付き合ってくれ」
東條は慣れた手つきでワインを開け、乾杯の準備をした。50年ものという赤ワインを開けると、
芳醇な香りが部屋中を満たした。
午前4時半、真珠湾攻撃の第一報が入った。航空部隊はアメリカ軍に遊撃されることなく奇襲に
成功し、敵の艦隊と飛行場に大打撃を与えた。暗号は「トラトラトラ、我、奇襲に成功せり」だった。
「先生、やりました。我が皇軍の大勝利です」
東條が赤松貞雄から渡されたメモを見て叫んだ。
「そうか。よくやった。万歳、万々歳だ」
蘇峰は東條と握手し、それだけでは足りずに抱き合って喜びを爆発させた。
2025年09月15日
<ふたりの祖国 336
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 47>
問題の親書を駐日大使グルーが受け取ったのは、午後10時半である。すでに正午には電報局に
着いていたが、逓信省検閲室で諜報活動の疑いがないか調査され、10時間遅れで配達されたので
ある。
グルーはただちに外務省に電話をかけ、午後11時半頃東郷外相と会って親書を天皇に届けるように
要請した。東郷は部下に親書の翻訳を命じると同時に、木戸幸一内大臣に親書を天皇に渡せるか
どうか問い合わせた。
すると木戸は東條首相の了解を得てからにしてほしいと言ったので、東郷は親書の翻訳を持って
首相官邸に駆けつけた。時すでに12月8日の午前0時30分になっていた。
東條は応接室のソファで東郷と会い、親書の翻訳に目を通した。その間、蘇峰は塩崎彦市とともに
隣の部屋にいて、警固用の小窓から様子をうかがっていた。
「本日の午前3時には、アメリカに対して宣戦の通告をすることになっております。その前にこの
親書を、主上にお目にかけるべきでしょうか」
東郷は外相として手続きを取ったものの、個人としては開戦に反対だった。
「仏印からの撤退を求めるだけで、アメリカ側の譲歩は何ひとつないではないか」
東條は親書を一読するなり、こんな物を陛下のお目にかける必要はないと言った。
「しかし親書の最後には、日米両国の伝統的な友誼を回復し、世界おけるこの上の死滅と破壊を
防止したいと書かれています。主上がこの呼びかけに応じて開戦を中止するご聖断を下された
なら、ぎりぎりのところで危機を回避できるのではないでしょうか」
「すでに連合艦隊ばかりでなく、全戦で線戦闘態勢に入っておる。陛下がそのようなご聖断を
下されるはずがないし、下されたとしても今さら中止することはできぬ」
二人が押し問答を繰り返している間に、午前1時30分の航空部隊の出撃の時間が過ぎた。
東條は懐中時計でそのことを確認すると、東郷外相に譲歩することにした。
「君とグルー大使の信頼関係を損なうわけにもおくまい。作戦に支障のない時間に宮中に届けて
くれ」
2025年09月13日
<ふたりの祖国 335
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 46>
「今日、アメリカ大統領は陛下に親書を送ったそうだ。だがこれは和平を呼びかけるものではなく、
インドシナから日本軍が撤退しなければ戦争は避けられないと通告するためだ」
なぜアメリカがそんなことをするのかを説明し、開戦するまでは親書が陛下に渡らないように
工作してほしい。蘇峰はそう頼んだ。
「それは陛下の安全を図るためですね」
「その通りだ。いつか君は、日本が戦争に負けたときに主上の立場がどうなるのか心配していると
言った。あの時にはわしの考えが及ばず失礼なことを言ったが、今になってみればよく分かる。
たとえ日本が戦争に負けたとしても、三千年の皇統だけは守り抜かねばならないのだ」
「そのためならこの身を犠牲にしても構いません。しかし親書を届かなくしただけで、主上を
守り抜くことができるのでしょうか」
「君はイェール大学の朝河貫一君を知っているかね」
「はい。陸軍大学校時代に朝河先生の『日本の禍機』を読んだことがあります」
東條はそれ以来、日米戦争が避けられないなら、どうやってアメリカに勝つかを考え続けてきた。
そうして出会ったのが、石原莞爾が『満蒙問題私見』で述べている最終戦争論だったという。
「朝河君とは古くからの知り合いで、大統領の親書の計略を知らせてくれた。彼は日米戦争が
始まってからも、陛下に戦争責任はないという論陣を張ってアメリカ政府を動かそうとしている。
大統領親書が陛下に渡らないようにするのは、その第一歩なのだ」
「分かりました。それでは12月8日の午前2時まで、東郷外相をここに引き止めておきましょう」
「もしや、その時間が?」
「真珠湾に奇襲部隊は、午前1時30分にオアフ島の北方に停泊した航空母艦から飛び立ちます。
攻撃にかかるのは午前3時半頃になると思いますが」
火蓋が切られるのは午前1時半で、それが過ぎたなら天皇に対して仕掛けた大統領らの計略を
防ぐことができるのだった。
2025年09月12日
<ふたりの祖国 334
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 45>
蘇峰はさっそく首相官邸に電話し、東條に面接したいと申し入れた。
「先生、赤松です。過日はお世話になりました。午後10時以降なら大丈夫です」
秘書館の赤松貞雄が押さえてくれたのは、親書が届くぎりぎりの時間である。念のために
午後9時から別室で待たせてもらうことにした。
夕方5時、紋付袴に着替え、塩崎彦市をともなって山王草堂を出ようとしていると、玄関側の
クヌギの枝でカラスが鳴いた。見上げると夕方の薄闇の中に、大柄のハシブトガラスが止まっていた。
「クマ公か。帰って来てくれたとか」
クマ公かどうか見定めることはできなかったが、見送ってくれたのは幸先が良いと思った。
蘇峰は東京日日新聞社の車で日比谷に向かい、山翠楼でゆっくりと腹ごしらえをしてから
永田町に向かった。
「奥崎君、日本の運命を決める夜だ。長丁場になるぞ」
首相官邸では赤松が車寄せまで出迎え、応接室に案内した。時間はちょうど午後9時だった。
「首相は大本営に出向かれ、陸海軍の首脳から英米戦について説明を受けておられます。午後10時
には戻られる予定です」
「そのことは極秘だろうね」
「その通りです。他には一切知らせておりません」
それなら東郷外相も、親書を届けにここに訪ねてくるはずである。それが分かり、ようやく人心地が
ついてソファに深々と身をゆだねた。
東條が戻ってきたのは午後10時半だった。軍服姿であたりを祓う威厳を放っているが、蘇峰を見ると
ほっと表情をゆるめた。
「先生、お待たせしてすいません。陸海軍の連携について、詰めきれていないことがあったものですから」
「今日は首相に頼みがあって来た。もちろん極秘だ」
「何でも申し付けてください。このような夜に来ていただき、百万の味方を得た心地です」
いつもと変わらず平身抵頭する東條に、さっそく用件を告げた。
2025年09月11日
<ふたりの祖国 333
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 44>
ヘンリーが立てた作戦は簡潔だった。まずヘンリーがアメリカ大使館に行き、大統領の親書が
いつ日本に打電されるか突き止める。
電報は東京の電報局で受信してアメリカ大使館に届けられ、それを駐日大使のグルーが外務省の
東郷茂徳外務大臣に渡すことになる。受け取った東郷は東条英機首相に相談し、許可を得てから
宮中に届けるはずである。
蘇峰はその前に首相官邸を訪ね、東條に頼んで大統領の親書を握りつぶすか、日米が開戦するまで
親書が宮中に届かないようにしてもらう。そうすることでアメリカの企てを阻み、天皇に責任が及ぶ
ことを避けようというのだった。
翌12月6日、ヘンリーはダグラス・マッカーサーからグルー大使との連絡役を命じられたという名目
でアメリカ大使館に常駐することにした。
この日、東條内閣は日米開戦を最終的に決断し、12月8日午前3時(ワシントン時間7日午後1時)
にアメリカに通告することにした。
同じ6日の午前(日本時間7日午前11時)、ルーズベルト大統領は親書をグルー大使に打電するよう
にハル国務長官に命じた。
蘇峰に電話がかかってきたのはその一時間後、ラジオから正午のニュースが流れ始めた頃だった。
「あなた、本郷教会の山岸さんという方からお電話です」
静子から告げられ、疑問を持ちながら受話器を取った。本郷教会とは古くからの付き合いだが、
山岸という名には心当たりはなかった。
「徳富先生、友人に頼まれて電話しました。賽は投げられた。ルビコン川に着くのは夜10時過ぎに
なるだろう。そう伝えるようにとのことでした」
アメリカ大使館の電話は盗聴されている恐れがある。そこでヘンリーは慎重を期し、山岸に頼んで
暗号を伝えさせたのである。蘇峰も暗号は聞いていたが、本郷教会を経由するとは思ってもいなかった。
「承知した。夕方にはルビコン川に向かうと、友人に伝えてくれたまえ」
2025年09月10日
<ふたりの祖国 332
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 43>
「狙いは何だ。なぜそんなことをする」
蘇峰の胸は昨日のように早鐘を打ち始めた。
「ひとつは開戦の正当性をアピールし、アメリカ国民の支持を得ること。もうひとつは天皇陛下に
戦争責任を負わすことで、終戦後の日本支配を容易にすることです」
「し、終戦後の・・・・、日本支配だと」
「陛下の戦争責任の証拠を握っておけば、日本を支配し思うままに利権を得ることができます。
それを狙っている巨大な勢力が、陸軍長官の背後でうごめいています」
だから親書が天皇に届かないようにして、彼らの陰謀を阻止してほしい。それが朝河教授の願いだと、
ヘンリーは熱意を込めて語った。
「わしがそれをやれば、陛下のご安泰を計ることができるのか」
口にした瞬間、蘇峰は自分が何を恐れ不安に苛まれていたかが分かった。
英米との戦争に負けて、国と国民が途端の苦しみにおちいることではない。三千年間つづいてきた
(と信じる)天皇を中心とした国体が破壊され、日本の歴史も伝統も信仰も消え失せることだ。
東条英機が同じ不安を口にした時、蘇峰は烈火の如く怒り、「東坊ごときが、そのような心配をする
必要はない」と叱りつけた。だがそれは考えるまいとしていた胸の図星をさされ、動揺し逆上した末
の反応だったのである。
「朝河教授は、ACLS(アメリカ学術団体評議会)の日本統治について政府に提言するといっておられます。
その骨子となるのは、天皇陛下に戦争責任はないと主張して国民と軍部を分断すること。終戦後の民主主義
社会と皇室制度は共存できるし、それこそが天皇家の歴史と伝統にのっとった真の姿だと立証することなの
です」
「そうか。朝河君も日本の中心は皇室にあると理解しているということだな」
蘇峰は手前勝手に解釈し依頼に応じることにしたが、問題はその方法だった。
「それならプランを立ててみました」
ヘンリーは手回し良く作戦案を練り上げていた。
2025年09月09日
<ふたりの祖国 331
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 42>
「何だって。すぐ変わってくれたまえ」
蘇峰が驚きに息を吞んでいると、受話器から流暢な日本語が聞こえてきた。
「徳富先生。 私はヘンリー・ナンブと申します。イェール大学の朝河教授から先生あての
手紙とメッセージを預かってきました。至急お渡ししたいのですが、これからお目にかかれない
でしょうか」
「朝河君なら良く知っているが、用件はなんだね」
「電話では詳しく申し上げられませんが、日米関係に関わる重大な案件です」
ヘンリーの言葉遣いも発言も的確で、信用がおけるようだった。
「分かった。これから檸檬屋に行く。一時間ほど待っていてくれたまえ」
スーツに着替えタクシーで店に行くと、VIPルームでヘンリーが待っていた。一目で日系人と
分かる顔立ちで、武道の心得があることも頑丈な体付きから見て取れた。
「ヘンリー・ナンブと申します。朝河教授とはイェール大学で親しくさせていただいております」
朝河はルーズベルト大統領から天皇にあてた親書を執筆したものの、日米開戦を望む政府の高官に
よって書き換えられた。ヘンリーはそうしたいきさつを語り、朝河の手紙を差し出した。
12月6日か7日の大統領の親書が電報で天皇あてに送られるが、日米が開戦するまでは天皇に
届かないようにしてほしい。その理由はヘンリーが説明すると記してあった。
「説明してもらおうか。その理由とやらを」
「朝河教授は日米開戦を避けるために、大統領から天皇陛下に和平を呼びかけてもらおうとなされ
ました。その動きを知ったスティムソン陸軍長官らは、教授の提案に応じるふりをして陛下に
日本軍は仏領インドシナから撤退せよと通告することにしたのです」
「無礼な。そんな通告に陛下が応じられるはずがあるまい」
「それは陸軍長官らも承知しています。彼らの狙いは、この通告を陛下が拒否されたという事実を
作り、開戦の責任は陛下にあると国内外に宣伝することなのです」
2025年09月08日
<ふたりの祖国 330
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 41>
そして英米は経済上、軍事上の脅威をますます増大しているので、「帝国は今や自存自衛の
為、蹶然起って一切の障礙を破砕するの外なきなり」と決意するに至ったと述べている。
蘇峰は二度三度と読み返したが、どうしたことか少しも文章が頭に入ってこなかった。まるで
知らない単語が連なる英文を読んでいるようで、分ろうと精読しているうちに頭痛と吐き気が
してきた。
「徳富先生、いかがでしょうか」
赤松は早く返答を得て、首相官邸に帰りたがっていた。
「何やら言い訳がましいね。我慢に我慢を重ねたが、相手の横暴に耐えかねて堪忍袋の緒を
切らしたというのは、安物の任侠映画のようではないか」
蘇峰はひどく冷笑的になっていたが、なぞそうなのか自分でも分からなかった。
「首相官邸で作った草案を木戸内大臣に示したところ、陛下が平和のための努力をつづけ、
堪忍自重してこられたことを加えるように指示があったのでございます」
「そうかね。悪いが1時間ほど待っていてくれたまえ」
蘇峰は2階の書斎に上がり、仮眠を取ってから詔書を読み返した。しかし可もなく不可もない。
思考の焦点が定まらず、指摘や添削をする気にはなれなかった。
「首相や内大臣が目を通したのなら、年寄りが口を出すことはあるまい。立派なものだと東坊、
いや東條首相に伝えてくれ」
赤松を帰した後、蘇峰は再び2階で横になった。
激しい不安と恐れに心臓が早鐘を打っている。今さら怖気づく歳でもあるまいに、この動機は
いったい何だ。そう自問してみたが、思考の焦点は定まらなかった。
翌12月5日の朝、大森駅近くの檸檬屋のママから電話があった。
「先生、早い時間にすみません。アメリカの方が至急先生にお目にかかりたいとおっしゃるのですが、
応じていただけますか」
「誰だね。そのアメリカ人とやらは」
「イェール大学の朝河貫一教授の使いだそうです」
2025年09月06日
<ふたりの祖国 329
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 40>
講演を終えて控室でくつろいでいると、2年前から秘書をつとめる塩崎彦市が来客を告げた。
「東條首相の秘書官である赤松貞雄大佐が挨拶させていただきたいとおおせでございます」
「聞いてないが、何の用かね」
「御意を得ておきたいことがあるそうでございます」
赤松は東條が陸軍大臣の頃からの秘書官にしている有能な男で、駐在武官としてフランスや
スイスに赴任していたこともある。秋田出身の赤松の朴訥さを、岩手出身の東條は気に入って
いるのだった。
「お疲れのところ失礼します。ご無礼ながら、お人払いをお願いします」
赤松は塩崎を下がらせ、声をひそめて東條の依頼を伝えたが、あまりに小さいので高齢の
蘇峰には聞き取ることができなかった。
「すまんが、他聞をはばかるなら、紙に書いてくれ」
赤松はすぐに手帳に用件を書き、蘇峰に渡した。
「数日中に対英米開戦の勅書の草案をお持ちしますので、添削をお願いいたします」
そう記されている。いよいよ乾坤一擲の戦争が目前に迫ったのだった。
12月4日の午前9時、赤松が公用車で大森の山王草堂に乗り付け、「米国および英国に
対する宣戦の詔書」の草案を持ってきた。
書き出しは次の通りである。
「天祐を保有し、万世一系の皇祚を践める大日本帝国天皇は、昭に忠誠勇武なる汝有衆に
示す。朕ここに米国および英国に対して戦を宣す」
英米に宣戦布告することを国民に告げ、陸海将兵は奮戦し、百僚有司は職務を遂行し、
一般国民はそれぞれの本分を尽くし、征戦の目的を達成するように求めたものだ。
開戦の理由は重慶に首都をおく中華民国政府が、「濫に事を構えて東亜の平和を攪乱し、
遂に帝国をして干戈を執るに至らしめ」たこと、米英両国が中華民国を支援し、「東亜の
禍乱を助長し、平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞うせむと」していることである。
2025年09月05日
<ふたりの祖国 328
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 39>
ヘンリー・ナンブが朝河貫一から徳富蘇峰あての書状を託された翌日(11月30日)、
蘇峰は日比谷の中華料理店山翠楼で、民友社時代の仲間たちと忘年会を開いていた。
民友社えお設立し『国民之友』を創刊したのは明治20年(1887)。
蘇峰が25歳の時である。前の年『将来之日本』の原稿をたすさえて身ひとつで熊本から上京
したが、この作品は刊行するなり世の好評を博し、文名も上がり収入も増えた。
蘇峰は間髪入れず民友社を設立し、『国民之友』が一万部以上売れるという大成功を収めた。
以来54年間、蘇峰は言論人や新聞社社長として斯界の第一線で活躍してきた。民友社時代の
仲間の多くはすぐに他界していたが、蘇峰は残った者たちとの交友を今も大事にしているの
だった。
蘇峰は酒を飲まない。山翠楼で昼食だけを共にしてもう年会を抜けると、午後二時から日比谷
公会堂で行われた大政翼賛会主催の日満華共同宣言満一カ年を記念した講演会に出席した。
この共同宣言はちょうど1年前に日本、満州国、中国の汪兆銘政権が行ったもので、全文で次の
ように謳っている。
{三国相互にその本然の特質を尊重し、東亜において道義にもとづく新秩序を建設するの共同の
理想のもとに善隣として緊密にあい提携し、もって東亜に恒久的平和の枢軸を形成し、これを
核心として世界全般の平和に貢献せんことを希望し、左の通り宣言す」
宣言は次の三カ条である。
一、三カ国は相互の主権および領土を尊重する。
ニ、三カ国は善隣友好、共同防共、経済提携の実をあげるために、必要な一切の手段を講じる。
三、三カ国は本宣言の趣旨にもとづきすみやかに約定を締結する。
これは近衛内閣が三年前に発表した「東亜新秩序建設の声明」の方針にのっとり、大東亜
共栄圏の確立を目ざしたものだ。それを記念した講演会で、蘇峰は英米との対決なくしてこの
宣言を実現することはできないと熱弁をふるったのだった。
2025年09月04日
<ふたりの祖国 327
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 38>
朝河は懐かしさを覚えながら話を続けた。
「徳川家の先祖は世良田次郎三郎といって新田氏の一族だから、母の実家も南朝とゆかりが
あったのだろう。その縁で新田家と同じ中黒の家紋を持つ朝河家に嫁いだのではないかと思う」
「先生が朝廷にひときわ敬意を抱いておられるのは、そのことと関係があるのではないですか」
「言われてみればそうかもしれない。私は歴史の研究を始める前から、天皇こそが日本の民族や
歴史の中心をなすものだと感じていた。それは南朝的な感性を受け継いでいたからかもしれない」
「実は私の祖である八戸南部家もそうなのです。三戸南部家は北朝方でしたが、八戸南部家は
北畠顕家卿を奉じ、南朝方として最後まで戦い抜きました。私もその血を受け継いでいます」
ヘンリーが感極まって涙を浮かべ、それを誓うように胸に手を当てた。
「だから天皇がこんな窮地に立っておられることが残念でたまりません。何とか打開策はないの
でしょうか」
「あるとすれば天皇に親書がとどかないようにすることだが・・・」
今からでは手の打ちようがない。日本大使館から外務省に打電してもらう手はあるが、岩畔豪雄が
左遷された今では門前払いにされるにちがいなかった。
「先生、私が日本に行きます。B-24は12月2日にマニラに着きますから、上海に飛んで日本の
大日本航空の便に乗り換えれば、東京に着くのは12月5日か6日になるでしょう。幸い日本時間は、
こちらより半日遅れています」
その間に関係者に接触し、大統領の親書電報を天皇が受け取らないように工作するとおいのである。
「ですから日本の有力者を、どなたか紹介していただけませんか。この工作に協力していただける方
を」
「それなら徳富蘇峰氏を訪ねてくれ。私が依頼の手紙を書くから」
朝河は机に向かって愛用の万年筆を走らせた。天皇を救い日本の解体を防ぐもうこれしか方法がない。
頼むから分かってくれと、祈るような気持ちだった。
2025年09月03日
<ふたりの祖国 326
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 37>
「オリーブは陸軍の上層部にも同じ計画があることを知って、妙だと思ったそうです。そこで内部
資料を調べてみたことろ、陸軍の上層部が先生の計画を利用した計略を練っていることが分かった。
そう言っていました」
陸軍長官スティムソンらは、天皇に戦争責任を負わせるために大統領親書を利用しようとしていた。
インドネシアで戦争が起こることが分かっていながら、日本軍の撤退を強く求めたのはそのためで
ある。
しかしこれだけでは親書の受け取りを拒否されるかもしれないし、後になって謀略だと問題にされる
恐れもある。そこで朝河が起草した親書の草案に便乗し、内容を大きく変えて送ることにしたのだった。
「先生は経済学部のフィッシャー教授に、陸軍長官の草案に協力するように頼まれませんでしか」
「言われたよ。草案の作成に関与するように」
「それこそが巧妙な罠なのです。日米の平和を願う先生のお気持ちを利用して、天皇に戦争責任を
負わせる計略です」
「陸軍長官の狙いは何だ。そんな工作までして、日本をどうしようというのかね」
「すでに戦勝後の利権争いが始まっているのでしょう。口するのも恐れ多いことですが、天皇を処罰して
皇室制度を廃止するか、天皇の処罰をちらつかせて日本を意のままに服従させるか。いずれにしても
日本占領後の主導権を握るには、天皇の戦争責任の証拠を握っておく必要があると考えているものと
思われます」
「そうか。やはりそうだろうね」
ヘンリーの分
析は、朝河の不安をそのまま言い当てた。
「先生は以前、朝河家は南朝ゆかりの家だとおっしゃっていましたが」
ヘンリーが思いがけないことを言い出した。朝河家の家紋は、南朝の忠臣である新田家と同じだと
話したことを覚えていたのである。
「詳しいことは分からないが、私の生母のウタは三河の奥殿藩の藩士の娘でね。徳川家の発祥地である
松平卿の近くなのだ」
2025年09月02日
<ふたりの祖国 325
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 36>
ニ日後、珍しい来客があった。国務省情報調査局のヘンリー・ナンブが、転勤の挨拶に研究所を
訪ねてきたのである。
「明後日、フィリピンのマニラに向かいます。インドシナ情勢が緊迫してきたので、周辺諸国の情報
収集に当たることになりました」
ヘンリーはすでに旅行の支度をととのえ、これからサンフランシスコに向かうと言った。
「船かね、その先は」
「部外秘ですが、陸軍航空隊がB-24という新型爆撃機を太平洋に投入することになりました。その
実用実験としてサンフランシスコからホノルルを経由し、マニラまで一泊二日で飛ぶことになったのです」
「それに搭乗するという訳か」
「マニラには今年の7月からダグラス・マッカーサー司令官が赴任しています。陸軍が司令官付の
作戦将校たちを送るので、私も同行を命じられたのです」
すでに日本との開戦を想定して陣容をととのえているということだが、ヘンリーが訪ねてきたのは
転勤の報告のためばかりではなかった。
「陸軍情報部のオリーヴ・パリッシュ分析官から、内密の伝言を頼まれました」
「ドイツから上がってくる情報を分析し、ナチスがポーランドに巨大な強制収容所を作っていることを
突き止めました。その手腕が評価されたそうです」
ユダヤ人絶滅を目的として作られたアウシュヴィッツ強制収容所のことである。
同所は1940年に運用が開始され、1941年には殺人用のガス室が設置されていた。オリーヴは
ドイツ国内のスパイや反対体制活動家からの情報を分析し、ナチスドイツが強制収容所にユダヤ人を
移送していることを突き止めたのだった。
「そうか。噂はやはり本当だったんだね」
「失礼ですが、先生は大統領の親書を日本の天皇に送る工作をしておられると聞きました。本当でしょうか」
「それもオリーヴからの情報かね」
「おおせの通りです」
ヘンリーは朝河を真っ直ぐに見ていきさつを語った。
2025年09月02日
<ふたりの祖国 325
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 36>
ニ日後、珍しい来客があった。国務省情報調査局のヘンリー・ナンブが、転勤の挨拶に研究所を
訪ねてきたのである。
「明後日、フィリピンのマニラに向かいます。インドシナ情勢が緊迫してきたので、周辺諸国の情報
収集に当たることになりました」
ヘンリーはすでに旅行の支度をととのえ、これからサンフランシスコに向かうと言った。
「船かね、その先は」
「部外秘ですが、陸軍航空隊がB-24という新型爆撃機を太平洋に投入することになりました。その
実用実験としてサンフランシスコからホノルルを経由し、マニラまで一泊二日で飛ぶことになったのです」
「それに搭乗するという訳か」
「マニラには今年の7月からダグラス・マッカーサー司令官が赴任しています。陸軍が司令官付の
作戦将校たちを送るので、私も同行を命じられたのです」
すでに日本との開戦を想定して陣容をととのえているということだが、ヘンリーが訪ねてきたのは
転勤の報告のためばかりではなかった。
「陸軍情報部のオリーヴ・パリッシュ分析官から、内密の伝言を頼まれました」
「ドイツから上がってくる情報を分析し、ナチスがポーランドに巨大な強制収容所を作っていることを
突き止めました。その手腕が評価されたそうです」
ユダヤ人絶滅を目的として作られたアウシュヴィッツ強制収容所のことである。
同所は1940年に運用が開始され、1941年には殺人用のガス室が設置されていた。オリーヴは
ドイツ国内のスパイや反対体制活動家からの情報を分析し、ナチスドイツが強制収容所にユダヤ人を
移送していることを突き止めたのだった。
「そうか。噂はやはり本当だったんだね」
「失礼ですが、先生は大統領の親書を日本の天皇に送る工作をしておられると聞きました。本当でしょうか」
「それもオリーヴからの情報かね」
「おおせの通りです」
ヘンリーは朝河を真っ直ぐに見ていきさつを語った。
2025年09月01日
<ふたりの祖国 324
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 35>
それなのに親書においてインドシナ問題だけを取り上げ、全面撤退を強要するのはなぜか?
(この地域で戦争が起こった場合、責任は大統領の勧告に従わなかった天皇にあると言うためなのだ)
これは外交的罠だと確信し、朝河は体から血の気が引くのを感じた。
おそらく大統領やハル長官が考えたことではあるまい。日米戦争に勝利した後に、日本での
利権を得ようと巨大な勢力がうごめいているにちがいなかった。
「どうだね。貫一、草案について意見があるなら聞かせてくれないか」
着替えを終えたフィッシャーがスポーツドリンクを片手に声をかけた。
「これは勝者の横暴だ。こんな企みは絶対に許すわけにはいかない」
朝河はそう叫びたかったが、無言のままフィッシャーに草案を返しただけだった。
そのまま部屋を出てセイブルックカレッジに向かった。いつの間にか雪が降り始めている。大粒の
ぼたん雪が音もなく舞い落ち、昨日までに降り固まった雪の上に積もっていく。
朝河は帽子を目深にかぶりコートの襟を立てて、冬枯れのポプラの並木の下を歩いた。赤レンガの
建物が並ぶ大学には、雪景色がよく似合う。いつもはのびやかな気持ちにある風景だが、今の貫一には
『モルグ街の殺人』の表紙絵のように陰鬱に見えた。
(この状況を、何とかしなければ)
心は不安にざわめくが、どうしていいか分からない。全米の半日感情が高まる中で、孤独感だけが
重くのしかかっていた。
前方にセイブルックカレッジの宿舎が見えた時、朝河はふと立子山小学校の校舎を思い出した。
雪の日に級友たちと出掛け、夕方になって解散した時のことだ。みんなはそれぞれの家に帰って
いったが、雪が積もった夕暮れの校舎を一人で歩いていると、みんなとは違うという孤独感にさいなまれ
て足取りが重くなった。
思えばあの頃から今日まで、変わらぬ道を歩きつづけているような気がした。
2025年08月30日
<ふたりの祖国 323
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 34>
しかも天皇のご真意は、グルー駐日大使を通じてルーズベルト大統領にも伝わっているのである。
(なぜならば親書を送り、天皇を巻き込まなければならないのか)
朝河はそこまで考え、自分の推論に愕然として椅子から立ち上がった。
翌27日、朝河は午前9時にフィッシャーの部屋を訪ねた。フィッシャーは真冬でもジョギングを
励行していて、学生たちと一緒に学内を走り回ってきたところだった。
「おはよう貫一。昨夜のハル・ノートの報道には私も驚いたよ」
フィッシャーは荒い呼吸をととのえながら、首筋の汗をタオルでぬぐった。
「大統領の親書のことだが、どんな内容か知っているなら教えてくれないか」
「それならここにある。まだ修正を加えるそうだが」
フィッシャーは机の引き出しから草案の写しを取り出し、無造作に朝河に渡した。
書き出しは次の通りである。
「ほぼ一世紀前、米国大統領は日本の天皇に米国民への友好を申し出る書翰を送った。この申し出は
受け入れられ、その後長年にわたって連綿と続く平和と友好の時期を通じて、両国は夫々の国民の
美徳と健全な国家の制度と指導者(とくに日本のばあい陛下の高名な祖父君明治天皇)の英知に
より繁栄し、人類のために大いに尽くしてきた」(引用は前掲『最後の「日本人」』)
冒頭では天皇への敬意が示され、朝河の草案を真似たような論調である。ところが後半になると
一変し、日本が仏領インドシナに進駐したことを強い調子で責め、全面的な撤退を要求している。
日本軍が撤退しても、アメリカはインドシナに進駐するつもりはないし、周辺諸国にも同様の
約束をさせるつもりだと断っているが、主張の内容はハル・ノートと同じだった。しかも注目すべきは、
提言をインドシナ問題だけに絞っていることだ。
日本は7月28日に南部仏印に進駐したが、これはフランスのヴィシー政権と合意した上でのことで、
国際法に違反しているわけではない。しかもまだ戦争は始まっていないのである。
2025年08月29日
<ふたりの祖国 322
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 33>
朝河の懸念は杞憂ではなかった。
翌26日の雪が降りしきる夜、ラジオで臨時ニュースが流れた。コーデル・ハル国務長官が、
日本の野村駐米大使にアメリカ政府の最終決定を伝えたのである。
通告の文章は「合衆国および日本国間協定の基本概略」。いわゆるハル・ノートと呼ばれる
もので、「第1項、政策に関する相互宣言案」と、「第2項、合衆国および日本政府の採るべき
措置」から成っていた。
ニュースでは詳しい内容は報じられなかったが、国務省の関係者が、「日本が中国および
インドネシアから全面撤退することと、重慶を首都とする中華民国政府以外、中国におけるいか
なる政府も認めない。これが政府の基本原則である」とコメントしたので、これまでにない強い
態度でのぞむ方針だということは明らかだった。
朝河はニュースを聞いた瞬間衝撃を受け、大きな疑惑にとらわれた。このハル・ノートと天皇
あての大統領親書に、いったいどんな関係があるのか。こんな最後通牒を突き付けておきながら、
政府は天皇に和平を呼びかけるつもりなのか。
(だとしたら、いったい何が目的なのか)
朝河は椅子に座り、脳髄を絞り出すようにして真相を突き止めようとした。
ハル・ノートを突き付けた上で親書を渡した方が、天皇の同意を得やすいと思ったのか。しかし
力で脅し付けた上で妥協を迫るとは、天皇を侮辱するのも同じである。そんなやり方で和平が
実現するはずがないことは、外交の専門家達は充分に分っているはずだ。
それを承知でこの策を立案したのなら、狙いは別にある。日本を怒らせ天皇を侮辱し、わざと
戦争を起こすことだ。
アメリカ国内には軍需関連産業を中心として、日米開戦を望む者たちが少なからず居る。しかし
国民の8割は戦争に反対しているので、先に日本に攻撃させて戦争やむなしの世論に誘導したいと
考えている。
その者たちが日本を挑発しようと企んだことかもしれないが、なぜ天皇まで巻き込む必要がある。
天皇は9月6日の御前会議で、「よもの海」の歌を詠じて平和を願う心を明らかにされているでは
ないか。
2025年08月28日
<ふたりの祖国 321
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 32>
「貫一、ウォーナー部長はこの件について、上院外交委員会のエルバート・トーマス上院議員に
要請した。その時、親書の草案については、イェール大学歴史学教授の朝河先生に相談している
と言ったそうだ」
「相談は受けたが、この件についてはACLSの日本委員会で検討するものと思っていた」
朝河は下手な言い訳をしながら苦いコーヒーを口にした。
「君にはいろいろ迷惑をかけたから、警戒する気持ちはよく分る。しかし私は、君を長年の親友
だと思っている。だから協力できることがあれば、問題解決のために力を合わせたいんだ」
「何だろう。協力できることは」
「実は政府内にも日米関係の行き詰まりを打開するために、大統領の親書を天皇に送ったらどうか
という意見がある。10月16日に近衛内閣が総辞職したという報が入った時、大統領は最高軍事
会議を開いて対応を協議したが、この席で対応を話し合ったそうだ」
信じられない偶然だが、この席にはスティムソン陸軍長官も出席しているので、フィッシャーの
話に嘘はなさそうだ。
「そんな時にウォーナー部長が動いていると聞いたから、両者が協力して良い案を作ることができないか
と思ったのだ」
「失礼だが、それは陸軍長官の要請かね」
「情報を伝えてくれたのはスティムソンだよ。しかし親書の作成に貫一を関与させたいと提案した
のは私だ。この親書で日米の和平が実現できたら、君は祖国の平和に貢献したことになる。それは
我が大学にとっても、この上なく名誉なことだからね」
フィッシャーは立て板に水と語ったが、朝河はすぐに応じようとはしなかった。
この親友に悪意がないことは分かっている。だが善良さを逆手に取られ、スティムソンや大学を
牛耳るS&B(秘密結社スカル・アンド・ボーンズ)に都合よく使われているし、本人もそれを分かって
いながら保身のために応じているふしがある。
それを交渉に当たっているウォーナーの了解を得なければ、後でどんな迷惑をかけられるか分からな
かった。
2025年08月27日
<ふたりの祖国 320
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 31>
「殿下よ、私を信じ給え。この我が国の祈願と、陛下の愛する貴国と、その貴重な伝統の将来への
懸念にたいする私個人の憂慮が、この陛下への直接に呼びかけるという特別な方法をうながしたの
である。
また一方では、陛下よ。日本の国際親交国仲間への復帰のもたらす奇跡的な一般状況への変化を
思ひ浮かべざるをえない。(中略)米国はもちらんのこと、たくさんの国々は、この勇敢な日本の
復興にたいする協力をおしむわけにはいかないと考えるようになるであろう」
(草案は阿部善雄著『最後の「日本人」』岩波現代文庫から引用)
朝河はその日のうちに草案を郵送し、翌日の夕方にはウォーナーから受け取ったという電話を受けた。
「草案を拝読して、日米融和を願っておられる教授の気持ちが痛いほど分かりました。明日から
ワシントンに行き、ホワイトハウスにアタックしてみます」
難しい使命だが勝算あると、ウォーナーは責任を自覚してふるい立っていた。
翌25日は火曜日である。朝河は授業の準備のために午前10時に研究室に行ったが、着いて間もなく
アーヴィング・フィッシャーから呼び出しを受けた。
「貫一、忙しい時にすまないが、相談したいことがある」
全米にジョギングを推奨しているフィッシャーは、冬になってもランニングウエアを着ていた。
「今朝はコーヒー?それとも紅茶かね」
「コーヒーをいただくよ」
朝河は勧められるまま革のソファに腰を下ろした。
「昨日ホワイトハウスの友人から知らせがあったが、フォッグ美術館のウォーナー部長が、大統領の
親書を日本の天皇に送るように各方面に働きかけているそうだ。この件について知っていれば教えてほしい」
朝河はコーヒーにミルクを入れ、スポーンでゆっくりかき回した。フィッシャーは陸軍長官になった
スティムソンとつながっている。うかつの手の内を明かすことはできなかった。
2025年08月26日
<ふたりの祖国 319
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 30>
東條英機に組閣の大命が下った時、天皇は9月6日の御前会議の結果にこだわらず、内外の
情勢を広く深く検討せよとおおせになった。米国との交渉をつづけ、戦争を避けるようにと
願っての事である。
ところが東條や閣僚ばかりか、政府や軍部の誰一人としてこのお言葉を誠実に受け止め、
戦争を避けるために身命を賭して行動するものはいなかった。
朝河は断片的に入って来るの日本のニュースを聞いてこうした状況を察し、11月19日付の
ウォーナーへの手紙に次のように記した。
「日本の当事者たちは自分で作った網にがんじがらめに縛られて、もう何も考えることさえ出来
なくなっている。(中略)この改革に着手できるのは、勅令によるしかない。勅令さえ出れば、
後はいかなる国よりも事はやさしく運ぶであろう」
だからルーズベルト大統領から天皇に親書を送ってもらうしかないと、朝河はセイブルック
カレッジの部屋で草案の執筆に取りかかった」
ルーズベルト大統領はどの程度なら、天皇に対して親愛の情を示すことを許容してくれるか。
大統領のどんな言葉ならば、天皇のお心を動かすことができるのか、幾重にも配慮が必要な親書を
何度も書き直し、11月23日になってようやく草案が完成した。
書き出しは次の通りである。
「偉大なる貴国の直面する重大危機は、陛下の幾代もの内閣の努力にかかわらず、実質的解決
は少しもなされていない。しかのみならず、それは日増しにわれら両国民の福利と国際平和を
おびやかしつつある。貴国との間に歴史上無比の誠意ある友好関係を一世紀近く継続した国の
元首として、私は陛下へ直接親書を差し上げるべきときがきたと信じる」
そして両国の歴史的な交流について触れ、数々の国難を乗り切ってきた日本人の英智を称賛し、
近年日米が直面している危機的状況について率直に記した。
その上で米国が採ってきた外交政策は日本を敵視したものではなく、日本が国際社会の名誉ある
一員になるように願ってのことだと書き、天皇に次のように呼びかけた。
2025年08月25日
<ふたりの祖国 318
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 29>
「朝河教授、それならフィルモア大統領がいい前例を示しているではありませんか」
「フィルモアの前例とは」
朝河はウォーターの意味を分かりかねる風を装った。
「教授も手紙に書いておられました。1854年に日米和親条約が結ばれる際、ミラード・
フィルモア大統領が孝明天皇に親書を送ったと」
「ええ、そう書きました」
「その例に倣って、ルーズベルト大統領に天皇への親書を送ってもらったらどうか。私はそう
言っているのです」
「そこまでは考えが及びませんでしたが、それが可能であれば」
事態を打開するきっかけになるだろうと、朝河は乗る気になった様子をした。ウォーナーをだま
すつもりは毛頭ないが、これは彼の発案だとした方がホワイトハウスでも通りがいいのだった。
「賛同していただけるなら、ACLS(アメリカ学術団体評議会)の日本委員会で検討してみましょう。
ボートン君やライシャワー君にも連絡を取ってみます」
「事態は切迫しているので、そのような余裕はないと思います。私が親書の草案を書きますので、
ウォーナー部長が政府の要人に提案していただけないでしょうか」
「そうですね。その方がいいかもしれません。草案はいつ頃できますか」
「今月下旬までにはお送りしますので、ご検討下さい」
「それが届いたなら、ホワイトハウスの友人たちを訪ねてみます」
「それならこれをお預けします。天皇が平和を願っておられることを証す書状ですので、何かの
お役に立つかもしれません」
牧野伯爵の書状をウォーナーに渡すと、朝河はその日のうちに寒さ厳しいニューヘイヴンにもどった。
日米関係が険しくなる中、日本では11月5日に第七回御前会議が開かれた。内容は公開されていない
が、この会議では「対米英蘭戦争を決意し、左記処置を採る」と決められた。
5項目の処置の中で特に重要なのは、第1項の「武力発動の時期を12月初旬と定め、陸海軍は
作戦準備を完整す」だった。
2025年08月23日
<ふたりの祖国 317
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 28>
「従来の日本の方針は根本上、不交、不正、卑怯、短視にして、日本国史の精神と世界の明白なる
趨向に逆行している」
この状況を変えるは、再び霊眼を開いて維新前後の(徳川)慶喜以下聡明な諸侯、及び志士たちが
取った「公明正大」を方針とするしかないと力説する。
そして次のように記しているが、この部分はきわめて重要なので朝河の書簡集(早稲田大学出版部)
の原文を引用させていただきたい。
「モシ軍部自身ガ慶喜ト(勝)海舟ノ公明なる勇退ヲ敢行スル道義的勇気ナクバ、外間ヨリ誓旨ヲ
申請シテ断行スルノ外ナカルベク候」
手紙の日付は10月13日だが、朝河はすでにかなり以前からこうした考えに傾いていた。岩畔に
「ルーズベルト大統領に天皇あての親書を送ってもらったらどうか」と提案したのはそのためだが、
実行するのは容易ではなかった。
もしこれが朝河の計らいだとしられれば、大統領も周辺の者たちも「敵性国民」という理由で即座に
却下するだろう。それゆえホワイトハウスに顔が利く仲介者を立て、しかるべき部署に働きかけなけ
ればならない。
しかも秘密を守り抜くためには、関与する人数を限りなく少なくしなければならなかった。
こうした場合に頼れる相手は、朝河には一人しか思い浮かばない。フォッグ美術館のラングドン・
ウォーナーである。
朝河は東條内閣成立のニュースが飛び込んできた日にウォーナーに面接を求める手紙を書き、11月
の初めにボストンにあるフォッグ美術館を訪ねた。
「朝河教授、お待ちしていました。お役に立てることがあれば、何なりとおっしゃって下さい」
シルクロードの探検家でもあるウォーナーは、活動的で自信に満ちていた。
「ご存じの通り、日米関係は破局の一歩手前にさしかかっています。これを防ぐには日本の天皇に
国策を変えるご聖断を下していただくしかないと思っていますが、どうしたらそれが出来るか思い
あぐねているのです」
2025年08月22日
<ふたりの祖国 316
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 27>
岩畔は苦しい胸の内を端正な楷書でつづっていた。
「帰国して驚いたのは、国内の空気が半年前とは一変していたことです。政府も軍部もドイツの
快進撃に魅了され、三国同盟さえあれば英米に勝つことが出来ると逸り立っています。この風潮
を改めることはもはや主上さえお出来にならず、明治天皇の御製を詠じるkとでしかご意志を
表明することができなかったのでございます」
日本は明治維新以来、国家の体制や陸軍の整備をドイツを手本として進めてきた。だが第一次
世界大戦でドイツが敗北したために、政府や陸軍の指導者たちは一転して批判の矢面に立たされる
ことになった。
ところがヒトラーとナチス政権がドイツの復興や成し遂げて周辺諸国を占領すると、批判されて
いた指導者たちが息を吹き返し、前にも増してドイツを賛美するようになった。しかしかねてから
朝河が指摘しているように、こうした指導者たちが東アジアの支配を正統化し、大東亜共栄圏の
構築を目ざしているのは、有良なるゲルマン民族がヨーロッパを支配するのは当然だというナチス
ドイツの主張に影響されてのことで、日本人の伝統にも背く借り物の思想である。
しかもナチスの思想の根底には、劣等民族は絶滅されても構わないという恐るべき狂気が巣くって
いるが、このことを理解している日本人はほとんどいないのだった。
朝河はまずこのことを日本人に伝え、反省をうながすべきだと思った。そこで古くから親交のある
金子堅太郎伯爵に手紙を書き、ドイツ人の学者が書いたゲルマン民族賛美論を同封して、ドイツを
信奉して三国同盟に頼ることがいかに危険であるかを指摘した。
その要旨は次の2点である。一つ、(今の)ドイツ人は非アーリア人である日本人を劣等民族と見なし
ているので、真の同盟関係をきずくことはできないこと、二つ、ナチスドイツの方針は他のヨーロッパ
諸国の怨嗟の的になっているので、やがて必ず敗北すること。
それゆえ今こそ日本の方針を改め、対改革を実行するげきだと朝河は次のように訴えた。
2025年08月21日
<ふたりの祖国 315
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 26>
日本と東部アメリカからの時差は、サマータイム(3月から11月まで)の間は、13時間である。
東京が10月10日午後1時を迎えた時、ニューヘイヴンは同日午前零時の眠りの中にある。
地球の自転という自然の摂理と、日付変更線という人為的な取り決めによるものだが、この時差が
日米の交渉の障害になることも少なくなかった。電信によって情報は伝わるものの、真昼の時間を
生きている人間に、真夜中の静寂の中にいる人間の心理を理解することは難しいからである。
その行き違いや誤解が、1941年12月8日の開戦に至る日米交渉に悪影響を及ぼしたことも
何度かあったのだった。
ともあれ物語は、日本で東條内閣が成立した10月18日の1週間前にさかのぼる。
この日の午後、朝河貫一はイェール大学図書観の三階にある研究室に出勤し、郵便受けに入れてある
封書を受け取った。日本の陸軍学校の総務課から、イェール大学気付で朝河に送ってきたものだった。
陸軍大学が何の用かといぶかりながら開封すると、岩畔豪雄からの手紙と牧野伸顕の署名のある
封筒が入っていた。
岩畔は9月6日の御前会議で天皇が「よもの海」の歌を詠じていただくことで、天皇の平和への希いを
表明していただくのが良いとおおせになりました」
牧野はこの案を内大臣の木戸幸一と近衛文麿首相の了解を得て実行し、ジョセフ・グルー駐日大使に
伝えることにしたのだった。
牧野の書簡にはこうしたいきさつと「よもの海」の歌の意味が英文で記され、天皇は衷心より平和を
望んでおられるので、アメリカ政府においても善処していただきたいと依頼していた。
岩畔の手紙の日付は9月7日。御前会議の翌日に送ったものだったが、近頃は日米間の船便もとどこおり
がちで、到着まで一カ月以上もかかったのである。
岩畔が陸軍大学校の封書を用いているのは、厳しくなった日本の検閲を逃れるために母校から送った
からだった。
2025年08月20日
<ふたりの祖国 314
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 25>
人物評では東條の経歴や発言、行動などと共に、父親の東条英教陸軍中将についても触れていたが、
蘇峰にとって目新しいものはなかった。大命降下を受けて急きょまとめたものだから仕方がないが、
感心すべきは政変についての海外の反応まで報じていることだった。
「我が政変の反響 米政府、緊急協議」
そんな見出しで、ワシントン特電17日発を載せている。近衛内閣総辞職の報を受けたハル国務長官は、
ルーズベルト大統領に報告。大統領は予定していた定例会議を取りやめ、ただちに最高軍事会議を開いた
という。
ロンドン特電16日発では、「突如行われた近衛内閣総辞職は、当地に非常な驚愕を与えている。
今回の政変の結果、いかなる人物が内閣の首班に推されるかを当地では最大の関心を以て眺めている」と
伝えていた。
こうした報道に刺激され、蘇峰は『日日だより』に「生一本の内閣たれ」という激励の文章を書いた。
「東條首相は、首相としては、此れから試験台に上がるのだ。けれども陸相としては試験済みだ。
兎にも角にも精強、卓徳、所信を敢行し、生一本の日本男児であることは、天下に隠れ無き将軍だ」
そう持ち上げてから、今の日本に必要なのは策士や利口者より国策を一直線につ遂行する律義者だ
と言う。その国策とは、「三国枢軸を基本として、東亜新秩序を建立すること」で、それには東亜共栄の
経済圏を設定することが急務である。
その国策を実行するには英米との対決は避けられないと、次のように記している。
「世間では支那事変の完遂と、太平洋問題とを別個に考察している。これ程大なる間違いはない。東亜より
英米の暴威、暴力を蕩掃するのが、即ち支那事変を完遂する所以だ」
こう決めつけてから、次のような言葉で論を結んでいる。
「我等は東條首相が我等の期待を裏切らざらんことを、中心(衷心)より祈りて、その前途を祝福する」
蘇峰の頭の中ではすでに対英米との開戦の号砲が鳴り響き、東條にも国民にもそれを求めているのだった。
2025年08月19日
<ふたりの祖国 313
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 24>
近衛内閣の総辞職と東條が後継首相に選ばれたというニュースを、蘇峰はラジオ放送で聞いた。
遠い彼方の出来事のようで、現実とは思えなかった。
「あなた、大変なことになりましたね」
静子は東條にかかる重圧を案じていた。
「男子の本懐だろう。死して罪過の汚名を残さぬことだ」
翌日の夕方、思わぬ来客があった。小田原の蘇峰会の会長が、角樽と目の下三寸の鯛、特上のかまぼこ
を持って祝いに駆けつけた。
「先生、やりましたね。おめでとうございます」
老舗のかまぼこ屋を経営している恰幅のいい会長が、東京朝日新聞の号外を差し出した。
「大命 東條陸相に降下」「挙国規定国策完遂へ」などの見出しが派手に踊っていた。
「この号外が届いたので、一刻も早く見てもらいたくてタクシーを飛ばしてきました。先生の長年の
願いが実現しましたね。これで皇国は盤石だ。アメリカなんぞに、でかい顔されてたまるもんですか」
「ありがとう。ここで号外を見られるとは思わなかった」
擦り立ての紙面から立ちのぼるインクの匂いが、蘇峰にはひときわ懐かしかった。
「東京日日ではなくてすいませんが、どうです、先生。近所の蘇峰会の同志集めて、祝いの酒宴を
やりませんか。近くの旅館を貸し切りますので」
会長はそのつもりで角樽を持参していたが、蘇峰は乗り気にはなれなかった。
「悪いが次の機会にしてくれたまえ。この号外を精読して、首相の励みになることを書いてやりたい
からね」
不服そうな会長を追い返し、蘇峰は老眼鏡をかけて号外に目を通した。
17日の午後1時から始まった重臣会議の結果と、木戸内大臣の天皇への奏上、東條を宮中に呼んでの
大命降下、それを受けて東條が組閣にかかり、18日の未明にほぼ完了したことが時間を追って記されて
いた。
号外の裏面には「陣頭指揮の決意 東条英機中将の横顔」と題して、東條の人物評が載せてあった。
2025年08月18日
<ふたりの祖国 312
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 23>
蘇峰がひどくセンチメンタルな気分にとらわれていた頃、東京では近衛内閣の閣議が行われていた。
午前9時からの開始に先立って近衛は東條を執務室に呼び、日米和平交渉への協力を依頼した。
ところが東條は三国同盟からの離脱と中国からの撤兵はできないので、9月6日の御前会議の決定に
従った決断をするように言い張った。
この対立は、閣議においても解消されず、近衛内閣は10月16日に閣内不一致を理由に総辞職した。
近衛は天皇に差し出した辞表に、対米交渉はまだ妥結の望みがあるのに、これを打ち切って大戦争に突入
することは、廷臣として耐え難いと記している。
そして「今日こそ大いに伸びんが為に善く屈し、国民をして臥薪嘗胆、益々君国のために邁進せしめる」
ことが重要だと訴えたのは、後継首相には日米交渉を継続する者を指名してもらいたいという切なる
願いがあったからだ。
これを受けて10月17日に次期総理推薦のための重臣会議が宮中において開かれた。出席したのは
92歳の清浦圭吾、若槻礼次郎、岡田啓介ら首相経験者ら7人で、義長役は内大臣の木戸幸一がつとめた。
この時、日米開戦に賛成の者は一人もなく、どうやってこの事態を収拾するかに議論が集中した。
近衛は東久邇宮稔彦王を後継にし、日米交渉を続けてもらいたいと望んでいたが、木戸はこんな混乱状況
のまま皇族に責任を負わせることはできないという理由で反対した。
それなら宇垣一成はどうかという意見もあったが、木戸はこれにも反対した。この混乱を収拾するには
陸海軍の協力体制を築くことと、9月6日の御前会議の再検討が必要だが、退役した陸海軍の大将には
現役の将官たちの反対を押さえることはできない、と言うのである。
その上で木戸が押したのは東条英機だった。強硬派の東條を首相にすることと引き替えに、御前会議の
決定の見直しと日米交渉の継続を命じたなら、陸海軍の開戦派を封じ込めることができる。毒をもって毒を
制するような策だが、昭和天皇もこれを了解され、その日のうちに東條に組閣の大命が下ったのだった。
2025年08月16日
<ふたりの祖国 311
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 22>
「あなた、しばらくお休みになった方がいいのではありませんか」
静子が蘇峰の容態を気遣った。蘇峰もお茶でも飲んで横になりたかったが、東條は話があると言って
なおも煩わせた。
「何かね。話とは」
「本当のことを申し上げてよろしいでしょうか」
「よろしい。言ってみたまえ」
「実は一番の心配は、戦争に負けたなら主上のお立場はどうなるかということでございます。万一戦争
犯罪人として罪に問われるようなことがあれば、三千年の皇統が断絶することにもなりかねません」
「馬鹿者、わしに向かって二度とそのようなことを口にするな」
蘇峰は大声で怒鳴り、頭の中で三叉神経の激痛が火花を散らした。
「お叱りはもっともですが、そのことを考えると責任の重大さに身がすくむのでがざいます」
「東坊ごときが、そのような心配をする必要はない。万一、万々一そのようなことになったとしても、
一億の民が人民の盾となって主上を守り抜く。アメリカの若造どもは、その盾を排除しなければ主上に
指一本触れることができないと悟るだろう。分かったか、このたわけが」
蘇峰は逆上して電話を切り、静子に塩を持って来させた。そして塩壺に手に突っ込み、東條の不敵な
発言を祓い清めようと電話に雪のように振りかけたのだった。
翌日、蘇峰は虚脱したまま横になっていた。頭の痛みは治まっていたが、何をする気力もなく起き上がる
力もない。まるで活け締めにされた魚になったようだった。
「あんなに腹を立てるからですよ。体に悪いし、東方さんが可哀想じゃありませんか」
静子が冷たい井戸水で洗ったぶどうを枕元に置いていった。近くの農家からの差し入れで、粒は
小さいが素晴らしく甘い。横になったまま一つ二つとつまんでいると、ふいに両目から滂沱の涙が
あふれ出した。
なぜ泣けてくるのか分からない。五十年近く数多の著作をものにしていながら、自分の心の真実ひとつ
分からない。それでも涙がせきあえず、いつしか声を上げて泣きだしていた。
2025年08月16日
<北斗七星>
失敗や敗北の経験から学ぶことは大切だ。『戦国武将の叡智』の中に越前・朝倉氏の軍師として
活躍した朝倉宗滴の「巧者の大将と申すは、一度大事の後に合たるを申す可く候」」(名将といえる
のは、一度大敗北を喫した者をいう)との言葉が解説されていた。「どうして負けてしまったかを
反省することで、『次の戦いに負けないようにしようにしよう』と作戦をレベルアップさせることが
できるし、いわゆる負けじ魂が培われる」と。その一人として徳川家康が挙げられていた。武田信玄
と三方ヶ原の戦いで多くの家臣を失ったことで、「家臣こそわが宝」と強く意識するようになり、
この経験が名将にしたという。・・・・
2025年08月15日
<ふたりの祖国 310
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 21>
「ならば信じる道を行けばよい。どうして関頭にたっているなどと言うんだね」
「懸念はいくつもあります。ひとつは陸軍と海軍の足並みがそろわないことです。及川海相は、今の
まま英米との戦争に突入すれば、備蓄の石油は半年で底を突くと言い、外交交渉の継続を主張して
います。これに近衛首相と富田外相が賛同し、9月6日の御前会議での決定は白紙にもどすべきだと
言うのです」
企画院総裁の鈴木貞一もこれに賛同し、東條は孤立無援の立場に追い込まれたのだった。
「それに明日の会議で首相に反対しつづければ、内閣不一致で総辞職し、第四次近衛内閣が組閣される
かもしれません。そうなれば本官だけに汚名を着せ、穏健派の大将を陸相に任じるのではないかと
思われます」
これは近衛首相が松岡洋右外相を罷免した時に使った手である。同じように罷免されて陸軍の体制を
崩されるくらいなら、期限をもうけて和平交渉の延長を認めた方がいいのではないか。
東條がくだくだと話すのを聞いているうちに、蘇峰の苛立ちと三叉神経の痛みは頂点に達した。
「東坊、戦陣訓を発令したのは君だろう。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと
勿れと、将兵たちに求めているではないか」
「おおせの通りでございます」
「ならば序文の冒頭を、この場で暗誦してみたまえ」
「夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を
宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる処なり」
「今の君の弱気は、この訓令に背くものではないのかね」
「確かに、お言葉の通りでございます」
「断じて敢行すれば、鬼神も之を避くと言う。攻めて攻めて攻めmまくるしか」、今の君に道はない。
自分の方針は絶対に正しいし、昔も今も勝ち
つづけている。誰に対してもそう主張しつづけるのだ」
蘇峰は受話器に嚙みつかんばかりに叱りつけた。
2025年08月14日
<ふたりの祖国 309
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 20>
「先生、東坊は最後の関頭に立っております。是非ともお知恵を貸していただきとうございます」
東條は思いあぐねて蘇峰を頼ったのだった。
「何だね。蒋介石の受け売りかね」
「明日午前9時から閣議があり、対米方針について最終的な決議が下されます」
「すまんが、今日は何日だね」
蘇峰は双宣荘で著作に没頭しているうちに、日付も世事も忘れ去っていた。
「10月13日です。昨日は近衛首相の荻外荘に四首脳が招集され、明日の閣議についての
下話をいたしました」
四首脳とは外相、陸相、海相、そして企画院総裁だった。
「近衛首相は何としてでも日米交渉を継続し、開戦を避けたいと考えておられます。そこで閣議でも
この方針に賛成するように、四首脳に求められた。
「それで4人はどう答えた」
「本官は9月6日の御前会議の決議に従うべきだと主張しました。他の3人は首相の意見に
賛同いたしました」
「アメリカとの戦争に、勝てる見込みはないというのかね」
蘇峰は苛立ちのあまり声を荒げた。その拍子に額の奥の三叉神経痛が鋭く痛んだ。
「その通りです。支那事変を解決できないまま対英米との戦争に突入するのは、祖国を滅ぼす自殺行為だ
という意見もありました」
「それで君は何と言った」
「アメリカの二つの要求、日独伊三国同盟かの離脱と中国からの全面撤退には、とうてい応じられません。
しかもアメリカは意図的に交渉を引き延ばし、自国に有利な状況を作ろうとしております。かくなる上は
御前会議の決定に従い、開戦を決意するべきだと迫りました」
「勝算はあるのかね」
額の奥の痛みは、稲妻が走るように耳の奥に突きささった。
「容易な相手ではありませんが、半年か一年は敵を圧倒できると思います。そうしてドイツと共にアメリカを
追い詰めれば、有利な条件で和議を結ぶことができましょう」
2025年08月13日
<ふたりの祖国 308
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 19>
「朝鮮との交渉が失敗した時には、自分はその場で争いを仕掛けて刺し殺される。
おはんらはそれを咎めることを大義名分として出兵すればよか」
西郷はそこまで腹をくくっていたが、岩倉使節団としてヨーロッパを視察してきた
岩倉具視、大久保利通らは、強硬に反対した。日本の産業も経済も軍事力も欧米諸国に
比べて大きく遅れているので、国力の充実をはかるのが先だと主張したのである。
この結果、西郷や板垣、江藤らが下野し、3年後の佐賀の乱や西南戦争につながて
いく。
蘇峰は山王草堂の成簣堂文庫から持参した大量の資料と首っ引きで、猛烈な早さで
原稿を書き進めた。そして全十七章、百節にわたる第八十六巻を40日ばかりで書き上げ、
いよいよ最後のまとめにかかっていた。
第百節は「征韓論の第一弾」と題し、その書き出しは次の通りである。
「好事魔多し、もし西郷自身の予定通りとすれば、9月下旬にはすでに朝鮮に入りて、
朝鮮から日本を眺め、遥かに宮城を拝し、近衛兵の勇ましき観兵式でも心眼に映ずべきであった」
ところが岩倉使節団の帰朝によって状況は大きく変わっていく。
その中で蘇峰が特に問題にしているのは、明治天皇の態度である。天皇は皇居内の紅葉の
御茶屋で西郷に会い、韓国のことは汝に一任するとおおせになったにもかかわらず、岩倉具視や
三条実美らが反対すると方針を変えられたのだった。
これはいったいいかなる訳か。その理由を追求しようとしていると、妻の静子が、声をかけた。
「東坊さまから、お電話でございます」
「今はそれどころではない。後でかけ直せと伝えてくれ」
「手が離せないとお伝えしましたが、どうしてもとおっしゃるので」
静子の言葉に押し切られ、蘇峰は居間に降りて電話にでた。
「何だね。アメリカ軍でも攻めてきたか」
不機嫌のあまり、きわどすぎる冗談を言った。
2025年08月11日
<ふたりの祖国 307
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 18>
「それは結構、大臣が望んだ通りになったじゃないか」
蘇峰は三叉神経痛の痛みから解放され、この日は実に爽快な気分だった。
「先生の励ましのお陰で大きく前進しましたが、ひとつ気になることがあります。主上が
会議の場で、明治天皇の御製を読み上げられたのです」
よもの海 みなはらからと思ふ世に
など波風の たちさわぐらむ
天皇はそう誦された上で「余は常にこの御製を拝承して、故大帝の平和愛好のご精神を
招述せんと勤めおるものである」と発言され、あくまで平和的解決を目ざすように求めら
れた。
「しかも木戸内大臣が、主上のご意向は駐日アメリカ大使のジョセフ・グループに伝え、
日米交渉の一助にさせていただくと発言しました。何らかの目論見あってのことと存じます」
「おそらく近衛首相の企みだろう。しかし今さらアメリカが交渉に応じる見込みはないの
だから、君たちは祖国日本のために最善を尽くせば良い」
蘇峰は勇ましい言葉を並べながら、不気味な不安にとらわれていた。
日本の十倍ちかい経済力持つアメリカと戦って勝てる確信はない。もし敗けたならどうなるか
と考えると、足元が崩れ去っていく頼りなさに襲われるのだった。
その日以来、蘇峰は『近世日本国民史』の執筆に没頭した。すでに新聞連載一万回を越え、
第八十六巻の『征韓論』にかかっている。
明治六年(1873)、日本では朝鮮国の非礼をとがめるために出兵すべきだという征韓論
が巻き起こった。もともと明治政府は、日朝に使者を送り、新政府の成立を告げて国交を望む
と伝えたが、朝鮮側は従来(江戸時代)外交文書の形式とちがうという理由で受け取りを拒否
した。
この争いが日朝の対立をエスカレートさせ、一触即発の状態になった。そこで西郷隆盛は
自ら使者となって朝鮮を説得し、それでも同意が得られない場合には出兵すると主張して、
板垣退助や大隈重信、江藤新平ら書参議の同意を得た。
2025年08月09日
<ふたりの祖国 306
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 17>
「先生、東坊でございます」
東條がそう名乗るのは切羽詰まって助けを求めるている時だった。
「どうした大臣、何か相談事かね」
「ご承知と存じますが、ルーズベルトから首脳会談延期の申し入れがありました。これにどう
対処っすべきかを決めるために、明日の午前十時から御前会議が開かれます」
「うむ、それで」
「近衛首相は首脳会談の実現に固執されるものと存じますが、陸海軍ともにこれはアメリカの
時間稼ぎに乗せられるものだと考えております」
日本は石油入手の道が断たれているので、時間がたつほど戦闘能力を失うことになる。アメリカ
はそれを見透し、先延ばしをはかっているというのである。
「それでは即時開戦を主張するしかないだろう」
東條の説明を聞いているうちに、蘇峰は耳の奥に鋭い痛みを覚えた。痛みはこめかみから
額へと広がり、爆発しようなほどの苛立ちを引き起こした。
「本官もそのつもりでありますが、主上も首相と考えを同じくしておられます。それゆえ即時
開戦を主張すれば、ご宸襟を悩まし奉るのではないかと恐れております」
「何を言っているのだ。御前会議で信じるところを述べないでどうする。それこそ主上に対する
最大の不忠ではないか」
「おおせの通りではございますが・・・・」
「東坊は信じる空を真っ直ぐに飛べ。主上のご宸襟への配慮は、木戸幸一内大臣などに任せて
おけばよい」
「御意。お陰で覚悟が定まりました」
「結果が分かったらすぐに知らせてくれ。私も側面から援護するから」
翌日午前11時から12時まで天皇のご臨席をあおいで第六回御前会議が開かれ、「帝国国策
推進要領」が決定された。その内容は次の三点だと、東條が電話で知らせてきた。
1,日本は自存自衛のため10月末を目処として米英蘭との戦争準備を終える。
2,戦争準備と並行してアメリカとの外交交渉をつづける。
3,10月上旬までに交渉がまとまらなければ、直ちに米英蘭との開戦を決意する。
2025年08月08日
<ふたりの祖国 305
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 16>
蘇峰のストレスの最大の原因はアメリカである。アメリカの強大な力に圧倒されて弱腰になる
日本の政治家、中でも近衛首相の優柔不断ぶりには怒りを通りこして哀れさえ覚えていた。
「三千年も主上をお支えしてきた摂関家の筆頭が、あげな若造国家になめられてどげんする
とか」
ハシブトガラスのクマ公がいればそう語りかけたいほど、日本政府はアメリカとの交渉において
翻弄されつづけていた。
日米諒解案が松岡外相の英断(蘇峰はそう評価していた)によって白紙にもどされたにもかかわ
らず、近衛首相はルーズベルト大統領に首脳会談を申し入れ、日米和平を実現しようとしていた。
この意を受けた野村吉三郎駐米大使は、8月8日にハル国務長官に会って、近衛の申し入れを
ルースベルトに伝えるように依頼した。これに対してルーズベルトは8月16日に野村と会い、
会談場所はアラスカのジュノーを希望すると返答し、翌日には日本政府に文書を手渡した。それは
日本がこのまま拡張主義を取るなら戦争も辞さない。しかし政策を変更するなら話し合いに応じる
というものだった。
これを受けた近衛は8月29日に出発の準備を命じ、側近たちと箱根のホテルにこもって交渉案
の作成にかかったが、9月3日にルーズベルトから妥結の見通しが立たないまま会談に応じることは
できないと返答があった。
このため近衛内閣は窮地に追い込まれた。近衛はアメリカとの和平実現のため、7月16日に
内閣総辞職を行なって松岡外相を解任し、2日後には第三次近衛内閣を発足させて穏健派の豊田
貞次郎海軍大将を外相に任じた。
そうして一月半の間日米交渉をつづけたが、近衛のこうした努力もルーズベルトの時間稼ぎに
すぎなかったことが明らかになった。それを知ると蘇峰のストレスは一気に高じ、顔面がゆがむ
ほどの痛みにおそわれるようになったのだった。
9月5日の夕方、東條英機陸軍大臣から双宣荘に突然電話があった。蘇峰は一階の居間に下り、
夕焼けに赤く染った富士山を見ながら受話器を取った。
2025年08月07日
<ふたりの祖国 304
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 15>
蘇峰は日本とアメリカの関係について次のように言う。
「我等は当初より、米国を敵視したるものでは無かった。否な寧ろ最も親交中の親交国とし、
同盟の約束無き同盟国視していた」
そして日本はアメリカに対して常に譲歩し妥協し、日本人差別問題などについても泣き寝入り
の状態ですましてきたが、物には限度がある。
アメリカは昭和14年7月26日に日米通商航海条約の破棄を通告して以来、日本に向かって
圧迫を加えつづけてきたが、それが近頃では日を加えるに従って激しくなりつつある。
「米国は日一日と東亜に進出し、政治上、経済上はおろか、軍事上にも夫々の施設を(構築)
している。シンガポールの軍港は英米の共有使用なり、印度には飛行機製造の基地を得、
フィリピンでは、其の軍隊を悉く米軍軍隊に編入し、蒋介石に対する援助も、資金車器ばかり
で無く、追々と人的援助も加へつつある」
蘇峰はこの年7月11日から双宣荘に来ているが、アメリカの動向についてはかなり正確に
把握している。これはラジオや新聞ばかりでなく、東京日日新聞社の外信部にいる西川大蔵に
電話でたずねていたからだった。
「米国の勢力は西半球に於て残る隈無く波及しつつある。然るに之にも飽き足らず、米国は
英国の遺産を相続し、座ながら東半球の一大勢力となり、延いて我が東亜の共栄圏にも
突入せんとしている」
そう訴えた後で、蘇峰は日本はこのような困難に際し、利害損得を超越して「国家の運命を
確信して、成敗利鈍を顧みず断行した」と書き、蒙古襲来や日清戦争の時がそうだと指摘して
いる。かくなる上はアメリカと雌雄を決するほかはないので、その覚悟をせよとうながして
いるのである。
ところが蘇峰も不死鳥ではない。傘寿(八十歳)を目前にして体の不調にみまわれることが
多くなったが、仲でも3月にわずらった三叉神経痛が再発し。時々耳や鼻の奥に針で刺された
ような痛みが走るようになった。
それは不安や苛立ちなどのストレスが高じた時に、顕著に現れるのだった。
2025年08月06日
<ふたりの祖国 303
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 14>
1941年7月28日に日本軍は南部仏印(ベトナム南部とカンボジア)への進駐を強行したが、
これは日本人が想像していたよりはるかに大きな脅威と危機感を欧米諸国の与えた。
日本は南部仏印を石油入手の拠点にしようと考えていたが、欧米諸国にとって南シナ海を含む
この海域は、太平洋とインド洋を結ぶ海の大動脈で、経済的にも軍事的にも守り抜かなければ
ならない地域だった。
彼らはこの地に拠点を確保しようと、19世紀の後半から熾烈な植民地獲得戦争をくり返して
きた。フランスはベトナム、ラオス、カンボジア。イギリスはビルマ(ミャンマー)、マレーシア。
オランダはインドネシア。アメリカはフィリピンを植民地にし、かろうじて独立を保っているのは
タイだけだった。
日本があえて南部仏印への進駐を行ったのは、石油や海上輸送路を確保するばかりではなく、
ドイツがヨーロッパ諸国を圧倒している間に東南アジアの植民地を解放して、大東亜共栄圏に
組み込もうという狙いもあった。
これは欧米諸国の経済圏に殴り込みをかけるようなものである。反発したヨーロッパ諸国は
アメリカの力を頼って植民地を守り抜こうとした。日本はこれをA(アメリカ)、B(イギリス・
ブリテン)、C(中国・チャイナ)、D(オランダ・ダッチ)包囲網と呼び、彼らが石油などの
資源の入手を妨害したので、自衛のために太平洋戦争に踏み切らざるを得なかったと、開戦の
詔書でのべている。
この解釈は戦後も一部の勢力に受け継がれているようだが、愚輩などには本来転倒ではないか
と思われる。そもそも日本が南部仏印に進駐しなければこうしたこうした事態を招くことは
なかったのだから、暴走したのは相手のせいだと言うのは、貪瞋痴の極みではないだろうか。
この頃、我らが徳富蘇峰は山中湖畔の双宣荘で静子夫人と過ごしていた。仕事のための
避暑に出かけるのは毎年の恒例で、南部仏印進駐の日には「歴史的連想」という『日日だより』
の記事を書き、アメリカの圧迫を日露戦争前のロシアの圧迫になぞらえている。
2025年08月05日
<ふたりの祖国 302
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 13>
「しばらく会わないうちにスリムになったね」
「祖国の命運を賭けた交渉ですから、侵食を忘れて努力しました。刀折れ矢尽きましたが」
「帰国したらどうするのかね」
「上は主戦派ばかりになりました。おそらく前線に飛ばされるでしょうか」
「ヒトラーの力を過信し、ソ連と戦っても勝てると思っているのでしょう。それにこれまで
ドイツ一辺倒だった首脳陣は、自分たちのメンツを守りたいのです」
岩畔が淋しげに苦笑した。
「まさに皆が錯覚におちいり、正常な判断力を失っている。この破滅の淵から逃れるには、
もはや天皇のお力に頼るしかないと思うが」
朝河は何とかしたい一心で、これまで漠然と考えていたことを口にした。
「それはどんな意味でしょう」
「たとえば和平を願う親書を、大統領から天皇にあてて出してもらう。天皇にその親書を
御前会議で披露していただき、米国の真意はここにあるので開戦してはならぬと申し付け
てもらうのだ」
「大統領にその親書を書いてもらう前に、天皇に和平のご意思があるかどうか確かめる必要
がある。ハル国務長官はそう言うと思います」
「それなら私が牧野伸顕公に手紙を書き、天皇のご意思を表明していただく工夫をするように
お願いしよう。それがアメリカ側に伝われば、ハル長官も納得するのではないだろうか」
「そんなことが可能なら・・・・・」
岩畔はしばらく考え込み、やってみる価値はあるかもしれないと言った。
「日本はこれまで天皇のご英断で何度も救われてきた。大化改新や明治維新を断行できたのは、
天皇のお力があったからだ。今度もそのお力で、政府や軍部の迷妄を覚ましていただきたい」
朝河は、その場で牧野にあてて手紙を書き、帰国する岩畔にとどけてもらうことにしたの
だった。
2025年08月04日
<ふたりの祖国 301
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 12>
「しかも滑稽なのは、近衛首相まで病気と称して自宅に引きこもったことです。
そうして国連を決すべき大事な二カ月が、無駄に過ぎました」
そのために朝河に連絡することもできなかったと詫びて、岩畔はあわただしく電話を切った。
日独伊ソの連携の崩壊という事態に対処するため、日本はどんな方針を打ち出すのか。
朝河はアメリカのニュースや日本の新聞を注視していた。
日本はヒトラーに裏切られたのだから、三国同盟を破棄して日米和平に舵を切る絶好の機会
ではないか。そうすることが祖国の安泰をはかる唯一の道だと祈るような気持ちでいたが、
日本は7月2日の御前会議で対ソ戦の準備と南部仏印(インドネシア半島南部)への進駐を
決定した。
この期に及んでもドイツとの同盟に望みを託し、ソ連を東西から挟撃するか、南部仏印に
進攻して石油を手に入れようと考えていたのである。
これに対して親米路線を取りたい近衛首相は、7月16日に内閣総辞職をして松岡外相を
罷免し、2日後に第三次近衛内閣を組織した。ところが軍や政府内の強硬派を抑えることが
できず、21日にフランス政府に迫って防衛協定を結び、南部仏印への日本軍の進駐を
認めさせた。
ルーズベルト大統領はこれに対抗し、7月25日にはアメリカ国内の日本資産を凍結したが、
日本軍はこの警告を無視して28日に南部仏印への進駐を強行したのだった。
その日の夕方、岩畔がイェール大学を訪ねてきた。朝河は大学図書館の三階にある研究室で
対面することにした。
「近日中に帰国するよう命じられました。大変お世話になりましたので、お礼を申し上げたくて
参りました」
「たいして力にもなれなかった。諒解案を生かせなかったことは痛恨の極みだよ」
「近衛首相は大統領との直接会談に望み託しているようですが、あのように弱腰を見透かれては、
とてもとても」
岩畔が苦笑しながら手を振った。下手のいいスーツを着て、胸に薄紫のポケットチーフを
入れていた。
2025年08月03日
<座標軸>
将来、子どもがほしくないZ世代が5割ーーー。先日、本紙の連載
『Z世代の恋愛』の見出しに驚いた。18歳から25歳の男女対象
の民間調査を題材にした内容で、筆者は、むしろ「子どもがほしい」と考えるZ世代も5割いると
素直に受け止め、その気持ちを大切にしようと。そして、経済的支援の充実などに加え、子育て
中のZ世代にもっと寄り添うべきだと指摘した。・・・・・
(斎藤鉄夫代表)
2025年08月02日
<ふたりの祖国 300
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 11>
1941年6月22日の未明、ドイツ軍が独ソ不可侵条約を破ってソ連に信仰を開始したの
である。
バルバロッサ作戦と呼ばれるこの攻撃には、ドイツが占領している各国の軍勢も動員され、
総勢百万人といわれる大軍がいっせいにソ連に攻め入った。
このために日本の世界戦略は大きく崩れた。日独伊三国同盟にソ連を加えて英米に対抗し
ようという構想は破綻し、新たな対応を迫らせることになった。
これに対してアメリカの対応は早かった。独ソ戦が始まったという報告を受けたルースベルト
大統領は、その日のうちにラジオ演説を行ない、ソビエトを同盟国と呼んで全面的な援助を
表明した。
翌年、朝河の部屋に岩畔から電話があった。
「先生、ご存知の通りの結末です。ドイツの裏切りによって日米の諒解案の合意は不可能に
なりました」
アメリカはドイツと日本に挟み撃ちにされることを避けるために、日本にかなりの譲歩を
してでも和平を実現しようとしていた。ところが独ソ戦が始まったのでこうした脅威は軽減
され、本腰を入れて日本と対決できるようになったのである。
「アメリカ側から、交渉を打ち切るという通告があったのかね」
「それはまだですが、向こうはあからさまに交渉の引き延ばしにかかっています。独ソ戦の
成り行きを見極めようとしているのでしょう」
「悔やまれるのは、二カ月もの間日本政府が決断をためらっていたことだ。松岡外相が強硬
に反対していると、日本の新聞には書いてあったが」
「三国同盟を締結した張本人である松岡外相は、4月22日に日ソ中立条約をまとめて帰国
しました。その直後に日米和平の話があると聞いて激怒し、病気と称して自宅に引きこもった
そうでございます」
外相不在の時は、首相が代理となって権限を行使することができる。だから近衛が諒解案を
承諾すれば良かったのだが、松岡とその背後にいる対米硬派を恐れて、松岡の承諾を待つことに
したのだった。
2025年08月01日
<ふたりの祖国 299
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 10>
おそらく蘇峰は軍部と深くつながり、その軍略を国民に周知させるために宣伝部員のような
扇情的な文章を書いているにちがいなかった。
岩畔豪雄からは何の連絡もないまま5月になり、状況はますます逼迫していた。5月21日
にはアメリカの商船ロビン・ムーア号がドイツの潜水艦(Uボート)に撃沈され、米独関係は
一気に緊張した。
これを受けてルースベルト大統領は、5月27日に無制限国家非常事態と臨戦態勢の確立を
宣言した。
6月14日にはアメリカ国内のドイツ、イタリア系資産の即時凍結を命じ、16日には国内
24カ所のドイツ領事館の閉鎖を断行した。
巨大な戦争に向かって暗雲が立ち込める中、朝河にとって悲喜こもごもの手紙が届いた。
イナ・ギャリンソンがニューヘイヴン市内の旧宅から送ったもので、娘のヘレンがこの秋に
結婚するので、式に出席してほしいと記されている。
それにつづいて、夫がこの春に他界したので私は再び寡婦になりましたと、ついでのような
調子で書いてあった。
(まったく、何という)
驚きの君であることかと、朝河は喜んだり同情したり追悼にふけったりと、乱気流のように
感情を揺さぶられた。こんなに感情を乱されるとは、やはりイナは特別な人だったと改めて
思った。
数日の間気持ちを落ち着け、6月18日にお悔やみと結婚式の招待を受ける旨を記した手紙
を送った。夫を亡くしたイナへの同情を告げ、悲しみのあまり健康を害さないように気遣った
後で、次のように書き送った。
「しかしながらまた、再び同じ家であなたにお会いするのは、喜ばしい盛儀が執り行われる時
です。ヘレンは私が最高の敬意を払っている人、そしてまたきっと彼女の最善の人生の伴侶と
なるだろうと思われる人と結婚することは、あなたに対しても、またヘレンに対しても、私は
非常にうれしく思っています」
同情と愛情と懐しさのこもった手紙を書き終えた四日後、日本の運命を決する驚天動地の
事件が起こった。
2025年07月31日
<ふたりの祖国 298
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 9>
翌日、朝河はイェール大学のセイブルック・カレッジにもどった。後は日米交渉の行方を
見守るばかりで、出来ることは何もなかった。
朝河は日本の動きを注視するために、およそ1月遅れで届けられる日本の主要な新聞に
目を通した。東京日日新聞もそのひとつで、徳富蘇峰が連載している『日日だより』も、
愛憎半する複雑な思いで読んでいた。かつては自由民権運動の闘士で、開明派のリーダー的な
存在であった蘇峰が、今や天皇を中心とした帝国主義、軍国主義の推進者になっている。
そうして国民をあおり戦争を継続するための言論をくり返しているのである。
たとえば3月3日の日付のある「南進策のつ遂行」では、「今や英と米とは、あらゆる手段、
方法を廻らして、我が南進の国策を阻止せんとしつつある」と記し、次のようにつづけて
いる。
「歯にて歯を償い、目にて目を償う。もし英米が経済的に我を圧倒せんとせば、我また
それに相応の報復を為すは当然の事だ。我らが南進は即ちその一である」
また3月7日の「徹底的に、徹底的に」では、日本は危機に瀕しているが、この危機を
突破する以外に安全をはかる道はないと訴えている。
「我らは決して戦を好むものではない。されど我らの臆病と、我らの怯弱のために、
禍を百年の後に養い、我らの子孫を窮地におとすに忍びず、あえて此言を作す」
その言とは「南進策の断行は、我が日本国を、百年の禍機より救済する、唯一の道である」
ということだ。朝河が『日本の禍機』を書いて以来、禍機という言葉が日本でも良く
使われるようになった。蘇峰のこの文章も一例だが、目ざす方向は正反対である。
東南アジアを植民地にしているフランスがドイツの占領下にある間に、それを奪い取って
石油や天然資源の供給にしようというのだから、武士道にあるまじき火事場泥棒のような
所業である。
それこそ日本民族の恥であり、禍を子孫に残す遇行だが、朝河は近頃、蘇峰の論と
日本政府や軍部の方針が通じ合っていることに気付いていた。
2025年07月30日
<ふたりの祖国 297
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 8>
「どうやら、会談はうまくいったようだね」
朝河もそう察して安堵の息をついた。
「ハル国務長官は、我々が作成した日米諒解案に修正をほどこした上で、同意してくれました。
この方針に沿って日米交渉を進めたいので、日米政府からも交渉を進めることを了解したと
いう訓令を出してもらいたいと求められました」
この回答を得た野村吉三郎大使は、大使館の職員に日米諒解案を暗号化させ、外務省に
打電するように命じたのだった。
「それは良かった。これで日米首脳の会談を実現できれば戦争の危機は避けられる」
「最大の難点は、三国同盟との兼ね合いでした。アメリカは、イギリスに支援物資を
送っているので、ドイツにいつ攻撃されるか分からない。そうなれば戦闘状態に入らざるを
得なくなるが、その場合日本は三国同盟の参戦条項に従ってアメリカを攻撃するのか。
ハル国務長官は野村大使にそう詰め寄り、そうした場合でも日本は参戦しないと約束しない
限り、これ以上交渉を進めることはできないと言いました。これを打開できたのは、先日の
先生のアドバイスのお陰です」
「あれで納得してくれたのかね。ハル長官は」
「アメリカが支援物資を輸送中にドイツと交戦状態になっても、日本は自衛のための行動と
見なし、三国同盟の参戦条項には該当しないと判断する。野村大使がそう申しでたところ、
ハル国務長官は同席したウォーカー郵政長官としばらく話し合い、それは知恵の実の結晶だ
と言いました。これで交渉は一気に進んだのです」
タクシーは桜並木の近くの駐車場に着いた。桜の時期はこの先へは車は進めない。朝河と
岩畔はタクシーを待たせ、川沿いの並木の下を歩いた。花は、まさに満開で、たわわな枝を
ポトマック川に向かって差し伸べていた。
「先生、あれをご覧下さい」
岩畔が振り返って指差した先に、ワシントン記念塔が天を衝く高さでそびえていた。
アメリカ独立を成し遂げた初代大統領を記念して、1884年に完成した大理石造りの
塔だった。
2025年07月29日
<ふたりの祖国 296
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 7>
野村大使とハル国務長官の2回目の会談は、4月16日に前回と同じワードマン・パーク
ホテルのハルの部屋で行われた。
朝河はメイフラワーホテルの部屋で、経済雑誌に載ったアーヴィング・フィッシャーの
貨幣錯覚についての論文を読みながら、岩畔からの知らせを待っていた。
貨幣錯覚とは、人々が実質値ではなく名目値にもとづいて物事を判断してしまうことで
ある。本来は貨幣価値の変化を考慮して商品価値を判断しなければならないのに、正札に
書かれてた金額によって良し悪しを判断してしまう。
これは旧来の経済体験に支配された意識が起こす錯覚で、商品の価値を正確に表すべき
貨幣の中立性を損なっているという。いかにもフィッシャーらしい冷静で分析的な理論に
もとづく主張だった。
なるほど人は錯覚する。自己錯覚、社会錯覚、国家錯覚。いずれも旧来の価値観に意識を
縛られ、こうありたいとか、かくあらねばならぬと思うために、目の前の現実が見えなくなる。
これを仏陀は執着と呼んだ。執着から離れて如実知見に至らなければ救いは得られないとも
説いた。経済錯覚などという名称は、いかにもおおらかな皮肉であるのは人間主義の向上を
願う慈悲なのかもしれなかった。
午後三時を過ぎた頃に電話が鳴り、ホテルの交換手が外線につないでくれた。
「先生、桜が咲きました。15時30分にホテルのロビーに迎えに行きますので、ポトマック河畔
まで出かけましょう」
岩畔の声は喜びに弾んでいる。桜が咲くとは、会談がうまくいったという意味にちがいなかった。
岩畔は約束の五分前にロビーに現われ、乗ってきたタクシーに朝河をいざなった。後部座席に
並んで腰を下ろすと、「日本桜まで」と短くドライバーに告げた。
日米友好の願いを込めて1912年に日本から贈られた三千本の桜は、ポトマック河畔に
美しい花を咲かせ、多くの人々の目を楽しませていた。
「先生、ありがとうございました」
硬骨漢、岩畔豪雄の声が泣いていた。
2025年07月28日
<ふたりの祖国 295
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 6>
朝河はホワイトハウスの北側にあるメイフラワーホテルでの交渉の進展を見守ることにした。
ワシントンでの滞在費は出すと岩畔が言うので、学会などで常宿にしているホテルに泊る
ことにしたのである。
メイフラワー号はイギリスのイギリスの清教徒たちが信仰の自由を求め、1620年に
アメリカに渡った時に乗っていた帆船である。その名を冠したホテルは、アメリカの今日の
繁栄を象徴する規模と格式を誇っていた。
ホテルの部屋に岩畔から電話があったのは4月13日のことである。
「は明日ハル長官と野村大使が、こちらのホテルで会うことになりました。会談の様子は
明日説明させていただきます」
翌日の午後一時、朝河はホテルの近くのレストランで岩畔と会った。ワードマン・パーク
ホテルの部屋は監視されているので、朝河に迷惑がかからないように配慮したのである。
「我々とドラウト神父がバークホテルで諒解案の素案を作成していることを、ハル長官は
知っています。そこで自分もアパート棟の部屋を借りて交渉場所にすることにしたのです」
それはこの交渉を秘密裡に行ないたいからだと岩畔は言った。
「アメリカでは参戦に反対する者たちが多い。交渉をマスコミに知られては、そうした世論
がますます強くなると警戒しているのだろう」
「私も会談に同席しましたが、ハル長官は太平洋の安全を確保するには、日本にある程度
譲歩しても構わないと考えているようです。しかしイギリスの支援をつづける方針は変わら
ないのですから、三国同盟の参戦条項をどうすり抜けるかが最大の問題になると思われます」
「可能性があるとすれば、イギリスに対するアメリカの支援を物資の輸送に限定すること。
その船がドイツの潜水艦に攻撃されて戦いになっても、参戦ではなく自衛と主張する。
日本もそれに同意した上で和平を結べば、ドイツ側として参戦しなくても三国同盟違反には
ならないと主張することができるのではないだろうか」
言わば屁理屈である。だが条約とは古来、そうした一面を持つものなのだった。
2025年07月26日
<ふたりの祖国 294
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 5>
「お分かりだと思うが、共産主義とドイツ流のファシズムだよ。アメリカはその潮流に反して
民主主義を守り抜かなければならないし、日本は朝廷と神仏を尊重する国柄を守りぬかなければ
ならないと思う」
そのためにも日米諒解案を成功させてほしいが、米国との交渉の伝はどうするのか。朝河は
岩畔にそうたずねた。
「日米和解を提案していただいてたドラフト神父は、ルーズベルト大統領の信任を得ておられ
ます。また神父がコンタクトを取っておられるウォーカー郵政長官は、大統領の選挙参謀をつとめた
有力者です。このお二人の力を借りて、野村大使とコーデル・ハル国務長官の会談を設立する
ことになっております」
「それなら問題あるまいが、一番の難点は日独伊三国同盟の援助義務だね。ドイツかイタリアが
第三国に攻められた場合、日本はその国を支援すると約束している。これが日米の和平と矛盾
するものではないと、アメリカに納得してもたえるかどうかだと思う」
その問題に言及しているのは「②欧州戦争に対する両国政府の態度」の頁で、「日本国政府は
枢軸(三国)同盟の目的は防衛的にして、現に欧州戦争に参加し居らざる国家(アメリカのこと)
に軍事的連衡関係の拡大することを防止するに在るものなることを闡明する」記している。
三国同盟がアメリカを敵視したものではなく、アメリカが欧州戦争に参加することなく、
アメリカが欧州戦争に参加することを抑止するためのものだという意味である。だが、アメリカは
イギリスを救援するために、大量の物資を送っていて、ドイツとは事実上敵対しているのだから、
この説明で大統領や国務長官の同意を得るのは至難の業だった。
「ヒトラーが日本に三国同盟を持ちかけたのは、アメリカを牽制してゆくヨーロッパに出て来ない
ようにするためです。アメリカはこの戦略を崩すために、日本と和平を結びたいと願っています。
その希望に添いながら、活路を見出す以外に方法はないと思います」
交渉の難しさは、岩畔も十分に承知しているのだった。
2025年07月25日
<ふたりの祖国 293
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 4>
朝河は素案を精読し、周到な配置に感心した。岩畔と井川忠雄がワシントンD・Cに
着いてまだ10日ほどなのに、よくぞこれだけのものを練り上げたものだった。
「大変良くできている。支那問題と日米問題を同時に解決できる妙案だ」
「この土台となる構想は、ドラフト神父から提案していただきました。我々はそれに
具体案を付け加えただけです」
岩畔は丸い顔を赤らめんばかりに謙遜し、何か少しでも付け加えていただきたいと申し出た。
「私は外交の専門家ではない。門外漢が口を出すべきことではないよ」
「日露戦争後にポーツマス条約を結んだ時、先生が陰に日に小村寿太郎外相の力になられた
と聞いております。それに私は青年の頃から、先生の『日本の禍機』を熟読させていただいて
おります」
岩畔はそれが事実だと示すために、禍機の一節を諳じた。
「日本もし旧外交をもって支那に対する方針となさば、米国あるいは我が敵となることあるべく、
また日本もし主位に立ちて新外交の二大原則を行わずば、米国必ず代りてその任にあたるべし」
「嬉しいね。32年も前に書いた文章を覚えてくれているとは」
「我が国は今まさに先生が警告なさった通りの危機に直面しております。それを避けるための
日米諒解案に先生が加筆していただけば、交渉が旨くいくにちがいありません。そう信じたい
のであります」
岩畔が目に涙を浮かべ、直立不動の姿勢で敬礼した。交渉の成否に祖国の命運がかかって
いると承知した懸命な姿だった。
「それなら①の項に、ちょっとだけ思うところを加筆させていただこう」
朝河は愛用の万年筆を取り出し、「日米両国の抱懐する国際観念並びに国家観念」の項に
次のように加筆した。
「両国政府は相互に両国固有の伝統に基づく国家観念及び社会的秩序、並びに国家生活の
基礎たる道義的原則を保持すべく、之に反する外来思想の跳梁を許容せざるの強固なる決意を有す」
「外来思想とは、何でありましょうか」
岩畔が即座にたずねた。
2025年07月24日
<ふたりの祖国 292
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 3>
「両国政府の関係は左記の諸点につき事態を明確にし、又これを改善し得るに於いては著しく
調整し得べしと認めらる」
そう前置きして列挙されたのは、次の7項目である。
「①日米両国の抱懐する国際観念並びに国家観念。
②欧州戦争に対する両国政府の態度。
③支那事変に対する両国政府の関係。
④太平洋に於ける海軍兵力及び航空兵力並びに海運関係。
⑤両国間の通商及び金融提携。
⑥南西太平洋方面に於ける両国の経済的活動。
⑦太平洋の政治安定に関する両国政府の方針。」
こう列挙した後で「右諒解は米国政府の修正を経たる後、日本政府の最後的且公式の決定に
俟つべきものとする」という但し書きがある。
その後に7項目についての詳しい注釈があるが、読者諸賢には煩雑だと思われるので省略させて
いただくが、当時日本が苦境におちいっていた③についてだけは紹介させていただきたい。
「米国大統領が左記条件を容認し、且つ日本国政府が之を保障したるときは、米国大統領は之により
蒋(介石)政権に対し和平の勧告を為すべし。
A 志那の独立。
B 日支間に成立すべき協定に基づく日本国軍隊の支那領土撤退。
C 支那領土の非併合。
D 非賠償。
E 門戸開放方針の復活。但し之が解釈及び適用に関しては、将来適当の時期に日米両国に於いて
協議せらるべきものとす。
F 蔣政権と汪(兆銘)政府との合流。
G 支那領土への日本の大量的または集団的移民の自制。
H 満州国の承認。」
つまり日本が中国からの撤退と占領地の返還を行なえば、アメリカが日支の和平を仲介する。その際の
条件として相互に賠償責任を負うことなく、満州国も承認すると言うのだから、日本にとってかなり
有利で現実的な提案だった。
2025年07月23日
<ふたりの祖国 291
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 2>
それは良く承知しております。私も陸軍中野学校の設立に関わり、諜報活動の内実は
承知しておりますので、先生にご迷惑をかけるようなことはいたしません」
岩畔はそう確約してから、日米の間で和平のための了解案が作られることになったいきさつ
を語った。
きっかけは昨年11月にアメリカからメリノール派の2人の神父、ビショップ・ウォルシュ
とファーザー・ドラウトが来日し、外務省のアメリカ局長や政財界の要人と会って日米国打開の
ための交渉をしたいと申し入れたとこだった。
これを近衛文麿首相や東条英機陸相などが賛同し、元大蔵省の官僚だった井川忠雄と岩畔豪雄を
アメリカに派遣して中米大使の野村吉三郎を補佐して交渉に当たらせることにした。
世に『日米諒解案』と呼ばれるもので、合意が成立したなら近衛首相とルーズベルト大統領が
成立したなら近衛首相とルーズベルト大統領がアメリカ国内で会談して合意文書を交わすことに
なっていた。
岩畔は井川とともに今年の4月1日にワシントンD・Cに到着し、ワードマン・パークホテルに
滞在してドラウト神父とともに諒解案の原案作りを行った。その上で日米双方の関係機関に通達し、
、修正を加えて交渉の叩き台となる素案が完成した。
「それは4月9日、昨日の明け方のことです。8日までにはできるつもりでしたが、
徹夜をしてようやく仕上げることができました。
目を通していただき、お気になったことを指摘してほしいのです」
岩畔が「Draft Understanding Between Japan and the United states」と記した諒解案の素案を
示した。すべて英文だが、朝河にはその方が理解しやすかった。
文書の冒頭には次のように記されている(以下橋本 惠著『謀略』早稲田出版より引用)。
「日本国政府及び米国政府は両国間の伝統的、友好関係の回復を目的とする全般的協定を交渉
し、且之を締結せんが為に共同の責任を受諾する」
この目的に従って話し合われるのは、次の7項目だった。
2025年07月22日
<ふたりの祖国 290
安部龍太郎 第十一章 極秘工作 1>
朝河貫一がワシントンD・Cの駅に降り立ったのは、1941年4月10日だった。
この年は春には珍しく大雪の日がつづき、ニューヘイヴンよりかなり南に位置するワシントン
D・Cでも建物や建物や植え込みの陰などに溶け残った雪がほこりをあびて積もっている。
これでは当時に滞在する間に、ポトマック河畔に植えられた日本桜が見頃になるかどうか
危ぶまれるほどだった。
朝河は駅前でタクシーに乗り、ロック川の北側にあるワードマン・パークホテルに向かった。
このホテルにはホテル棟の他に長期滞在用のアパート棟があり、米国内や海外からやって来た
政治家や外交官、商社マンなどに利用されている。
朝河は知らせを受けた通り、206号室のドアをノックして来訪を告げた。応対に出た
岩畔豪雄は丸い顔にロイド眼鏡をかけ、短い口髭をたくわえていた。
「朝河先生、お待ちしておりました。ご足労をいただきありがとうございます。
岩畔は駐米日本大使館付武官補佐官として赴任したばかりで、日米の危機的状況を
打開するために野村吉三郎大使の補佐に当たっている。
45歳の働き盛りで、職は軍務局軍事課長、階級は陸軍大佐だった。
「電話をいただきありがとう。おおよそのことは大久保利武公からいただいたお手紙で
了解しています。私でお役に立てるといいのですが」
「実は日米の和平交渉を命じられた時、東京で多くの要人に会い、力になっていただける方は
アメリカにおられないかとたずねました。それなら朝河先生だと言われる方が何人もいましたので、
イェール大学の出身であられる大久保利武侯爵にお願いいただきました。くれぐれもよろしく
お伝えするように申しつかっております」
「電話でも申し上げたが、私の今の立場では交渉の表に立つことはできない。この交渉に
関わっていることも、マスコミなどには伏せてもらいたいと思っています」
朝河は自分の名前を表に出さないように改めて念を押した。
過去のメモ