日付メモ
2026年02月25日
<鬼才 119
赤神諒 第Ⅳ章 海の幸 13>
「青木さんって、本当にすごい方なんですね・・・・」
「ああ、布良で、青木繁が歴史に残る傑作を描いてやるさ」
たねの称賛を当然のように受け止め、青木はいつものように笑う。
青木が見せてくれた『女の顔』は、優れた作品だと坂本も思ったが、描かれた女は
悪女のようだった。坂本なら、たねの純朴な初々しさを描いたろうが、そんなものは
欠片もなく、本人とは似ていない。
何ヶ月もかけてあの作品を描くうち、二人は恋仲になったのだろう。その割には、
今も坂本を挟んで座っているし、布良行きも青木が誘わなかったようで、よそよそ
しい気もするのだが・・・・。
「ちょうど買い出しがあるから、うちの若いのに港のほうまで持って行かせるよ」
「そうしな。そろそろ俺たちも行こうぜ。布良に詳しい森田が先頭に立ってくれ」
青木が坂本の腕を取り、立たせてくれた。今さらでも、気遣っているらしい。
昼下がりまで話しながらゆっくり歩き、山中の道から出ると、潮の匂いがした。
輝く海の手前に、家々が立ち並ぶ。
ーー布良だ。漁村らしく、あちこちの軒下に網が干してあった。
早速海へ走り出そうとする青木をすかさず引き止め、坂本はまず宿に落ち着こうと
提案した。
高島から紹介された宿へ行くと、満室だという。
話が違った。しかも、見るからに値が張りそうだ。若い無名詩人の紹介には、何の力
もない。布良にこれほどたくさんの人が来るとは思わなかった。
坂本は心底焦った。男たちはともかく、たねを野宿させるのは・・・。
「心配するな。繁次郎。俺は天に守られてるんだ」
頭を抱える坂本を尻目に、通りがかりの老人に青木が話かけた。
「なあ、爺さん。布良で一番よくできた男は誰だ?若い連中を四人ばかり、ただ同然で
面倒見てくれる太っ腹な奴はいねぇかな?」
そんな人間が、都合よくいるものか。青木はいつまでも懲りない性分らしい。
2026年02月23日
<鬼才 118
赤神諒 第Ⅳ章 海の幸 12>
「今日は特にお客が多かったから、弱ったねぇ。どっちへ行ったんだろう?」
長財布を手に、女主人は困り顔だ。
「僕たちが店に来てから背中合わせ座ったのは、一人だけじゃないか。確か茶色い
着物の老紳士で、館山の方へ行ったと思う」
はっきり見たわけでもないが、森田の記憶は坂本と違っていた。
「いや。中年の男の人で、服は青だったんじゃないかな。僕は布良の方に行ったと
思うけど」
「わたしは、白っぽい着物の女の人だったように思います。坂本さんのおっしゃる
ように布良のほう行ったと・・・」
左隣のたねも首を傾げている。
背中合わせに座っていただけだ。ずっと青木から北斎の話を聞いており、ちゃんと
見ていないから、三人とも自信はなかった。
青木が横広に口を開けて白い歯を見せながら、大きく頭を振った。
「みんな間違いだ。背中合わせは二人。一人はたねが言ったように白い着物の
中年女性だが、布良のほうへ行った。だから、忘れ物をしたのは、その後に来た
初老の親爺さ。繫次郎が言うように青地の着物だが、正確には、藍鼠で元禄模様が入って
いた。袴が黒で帯は茶色。館山の方角へ歩いて行ったけど、草鞋の紐が切れかけて
いた。急いでいる様子はなかったよ。独りだったし、港で困るかも知れねぇな」
自信たっぷりに語る青木に、皆がたまげた。
青木は北斎や浮世絵について喋り続けていたから、出入りの客をせいぜい一瞥したくらい
のはずだ。
「画集の絵でも、俺は一度見りゃ覚えるさ。美校に入ってから知ったが、他の人間には
無理らしいな」
隣のたねが、坂本ごしに感嘆の表情で青木を見つめている。
この世には、出会った絵を細部まで頭に入れてしまう人間がごく稀にいるらしいが、
青木繁もその一人だった。
2026年02月21日
<鬼才 117
赤神諒 第Ⅳ章 海の幸 11>
「なあ、お前らはこの海をどのように描く?」
青木は敵軍と対峙するような顔つきで、異郷の海を見下ろしていた。
内陸で育った四人にとって、海は身近でない。
脂派の不同舎で学ぶ坂本もたねも、外光派の美校で学ぶ森田も、見たままを写実で
描く。それ以外に学んだ技法はなかった。
「北斎は波で海を描いた。あんな波を描いた画家は、この世のどこにもいなかった。
全く新しい仮像の世界を想像で創り上げたんだ」
すでに百年も昔に、日本の偉大な画家は海を見事に描いていた。
青木は洋画を極めた後、日本画でも新しい藝術を作ると豪語していた。北斎に
ついてひとくさり蘊蓄を垂れた後、青木は「俺も、皆が腰を抜かすような新しい
海を描く」と言い切った。
右端の森田が尋ねる。
「もう構想はあるのかい?」
自分と他の二人が描く海は、おおよそ想像できれも、青木の画は全く見当も
つかなかった。
「まだ何もない。だけど、そのうち閃くさ。それまでは東京へかえらねぇよ」
いったい何日宿泊するつもりなのだろう。
坂本は慌てて頭の中で、苦手な算盤をはじく。青木のぶんを坂本が払うとすれば、
安宿で一週間が限度だ。
「おや?この財布、学生さんたちのかい?」
茶店の女主人が紫色の長財布を手に尋ねてきた。男物だ。
「俺たちはれっきとした画伯なんだが、そんな大金は持ってねぇな。どこにあった
んだ?」
「あんたたちのすぐ後ろだよ。ここに座ってたお客の誰かが忘れたんだね」
繁盛する茶店だけに。出入りも頻繁だ。
右から森田、青木、坂本、たねの順に座っていた。
「僕たちが座った時には、何もありませんでしたよ」
森田が応じると、女主人は困り顔をした。
2026年02月20日
<鬼才 116
赤神諒 第Ⅳ章 海の幸 10>
「着替えを一着買っておきました。洗濯もして差し上げましょうと思います」
恥ずかしそうに言うたねに、坂本と森田は微笑みを返す。
青木の妻には、たねのように芯が強くて、献身的な女性が相応しいだろう。
かくてその夜は、館山で楽しく一泊したが、青木との旅が何もなしに終わるはずもない。
戦々恐々としながら迎えた二日目・・・。
「森田さん、ここから布良までは、まだ少しありのでしょう?」
「僕たちは若いから、二時間と少しで歩けるよ」
夏の盛りだから、午前中のまだ涼しいうちに着きたかった。
全員を無事に布良まで連れて行かねばと、坂本は気を引き締めている。
「今年獲れた中で、一番でかいのはどんな奴だ?」
青木の道草は、誰かを見かけるたびに繰り返された。これでは日が暮れる。
坂本は老人から青木を引き剝がすようにして、四人で布良を目指した。
青木を先頭になだからな山道へ入り、森の風に吹かれながら、ずんずん歩く。
旅行のために貯金せねばと無理を続けたせいもあったろう、一歩ごとに画嚢の重みが
肩に食い込み、小柄で体力に乏しい坂本は、喘ぐほどに息が上がってきた。
森田が代わりに画嚢を担いでくれ、たねがイーゼルを持ってくれたが、後ろに気も付かない
青木はどんどん先へ行ってしまい、姿も見えなくなった。
暑い中をようやく峠まで登ると、海が見える眺めの良い茶屋で、青木が女主人と
談笑していた。
「おう、連れが来た。さあ、さっき言ってた氷水を頼む。ちゃんと三銭五厘がた餡を
要れるんだぜ。増しても減っても聞かないぞ」
疲れ果てた坂本が広めの縁台へ倒れこむように腰を下ろすと、青木が騒いだ。
「おばちゃん、急いでくれ! 俺の親友の喉が渇いてんだ」
やがて差し出された冷たい氷水と歯ごたえのある小豆の甘味のおかげで、坂本は
生き返る心地がした。
2026年02月19日
<鬼才 115
赤神諒 第Ⅳ章 海の幸 9>
金銭に対する青木のあまりの無頓着については、坂本も親友として何度か忠告をした。
でも、青木ろくに聞かないし、聞いても全く治らなかった。
そんな青木をそばで見ていると、意外なことに天は平等で、藝術の才能を与え過ぎた
代償として、誰もが持つ当たり前の能力を青木かた奪ったのかとさえ、坂本には思える
のだ。
それでも今回の旅行では、二人より余裕のある森田に加え、実家が裕福なたねが参加
するから、いつもよりなんとかなりそうで、坂本は少し気が楽だった。
汽船が着岸すると、青木は歓声を上げながら陸へ一番乗りした。
子供と変わらず、同行するのが恥ずかしい。三人が後へ続く。
「おう。親爺。今はどんな魚を獲ってんだい?」
網の手入れに勤しむ中年の漁師に、青木が馴れ馴れしく話かけている。
「余分にお金を持ってきましたけれど、青木さんはきっと持ち合わせがないのでしょう?」
心配そうに青木を見るたねは、二人よりも年下の19だが、まるで青木の姉か母親の
ようだった。
「帰りの船賃だけは、僕が預かっておいたけどね。お金のある無し以前に、全く何も
考えてないよ。今日は館山の吉野家に宿を取ったけれど、明日からは同郷の高島さんの
紹介らしい。本当に大丈夫なのかな・・・」
「金は天下の回りもの」という陳腐な言い回しを、青木は明らかに誤解していた。
金などというものは、その時に持っている誰かが払えばいい。あらかじめ金策を考える
必要はないし、金の貸し借りなど、目くじら立てて論ずべき話でもない。
それほどの意味だと、都合よく解釈していた。
一度、坂本がカンヴァスを買う金に困っていた際、青木がほいと一円出してくれた珍事が
あるが、何日かして返そうとしたところ、青木は「何だ、それは?」と不思議がっていた
ものだ。
2026年02月18日
<鬼才 114
第Ⅳ章 海の幸 8>
十六 坂本繁二郎 5
ーー明治37年(1904年)7月、
房州館山近傍・布良
夕方に霊岸島を出て安房へ向かう汽船は、夜のうちに東京湾を渡り、
翌朝、房州の館山沖に着いた。
例のよって青木が突然言い出した写生旅行は、坂本と森田と三人で行くはずが、
急遽たねも加わることになった。
坂本が出発前日に不同舎で朝の掃除をしていると、たねが「坂本さん。わたしも
布良へご一緒させてくださいませんか」と、頼んできた。
駒込の下宿へ戻り、同居の青木に確かめると、ろくに考えもせず、「面白いじゃ
ねぇか」と即答してきたのである。
「おはよう、坂本君。誰か高名な画家が来ていたら面白そうだね」
気持ちよさそうに伸びをする森田は、二度目の布良だという。
浅井忠の門下生が毎年写生に訪れるそうで、二年前に来た折は一行に出くわした
らしい。青木によると、布良は万葉集にも詠まれた、由緒ある場所だ。
「たった今、世界のアオキが来たじゃねぇか」
振り返ると青木がおり、束髪に白リボンのたねを従えている。
ハッ、ハッ、ハッの笑い声で、乗客たちが一斉に青木を見た。
授業料の一件以来、さすがの青木も少しばかり反省して、文房堂が売り出す一枚
三十銭の絵葉書を描き、ぎりぎり生きていけるだけの日銭を稼いでいた。それでも、
金銭の蓄えはほとんどなく、今回も布良に知人がいる同郷の詩人高島宇朗に頼んで、
宿屋への紹介状を書かせただけだった。
とことん追い詰められるまで、青木が金策を講じることは決してない。
それどころか、その段になっても、まだ周囲の誰かが何とかするはずだという
楽観論が、青木の心持ちにはしっかりと根付いていた。
実際、坂本や梅野ら友人たちが、危機を何度となく救ってきたせいか、かえって、
今後も必ず何とかなると、根拠もなく思い込んでいる節があった。
2026年02月17日
<鬼才 113
赤神諒 第Ⅳ章 海の幸 7>
たねは汗も拭かずにあわてて湯文字を穿き、薄衣を羽織った。
青木が窓を開け放つ。
まだしも涼しい風が入ってきた。
外では、心地いい夕空の下を外濠線がのんびりと走っていた。
たねも窓際に立ち、そっと青木を見たが、目を合わせようとしない。
でも、恥ずかしかったのは、こっちだ。
青木は気まずさを搔き消すように、話題を変えた。
「そろそろ、秋の白馬会展に向けて構想を練らなきゃな。勝負しようって、
藤島と約束したんだ」
日露戦争のために展覧会が軒並み中止され、出品できる場は限られていた。
青木はたねに一度も視線を合わせないまま、片付けに入った。
「わたしはもう、モデルにならなくてもいいのですか?」
画家は満足そうな顔つきで、筆に付いた絵具をボロ布で拭き取っている。
「おかげで、いい作品が描けたからな。ありがとよ」
青木は筆をテレビン油に浸してから、手際よく絵具を落としてゆく。
「ではもう、ここへはいらっしゃらないのですか?」
「何をしに来るんだ?」
青木がけげんそうにたねを見た。
答えられずにいるうち、絵具箱はすっかり片付いてしまった。
たねが恐れていた通りだ。
青木はこの下宿に<運命の女>を描くためだけに通っていた。満足できる
作品が仕上がった以上、たねはもう用済みなのだ。
「不同舎には、またおいでになるのでしょう?」
「気が向けばな。そうだ。近々、繁二郎と森田を連れて、布良へ写生旅行に行く。
しばらく戻らねぇ」
青木は下駄を履きながら素っ気なく応じると、何事もなかったかのように、画嚢を
担ぎ、下宿を出て行った。
たねが窓から見送っても、これまでと同様、青木は一度も振り返らなかった。
2026年02月16日
<鬼才 112
赤神諒 第Ⅳ章 海の幸 6>
「ひとまず、これでいい」
「出来上がったのですか!」
たねはそのままの姿で回り込み、カンヴァスを覗き込む。
さっきの女とは明らかに違う。
画の中の『女の顔』は、ほとんど描き変えられていた。
挑むような眼差し、わずかに開く唇と朱を帯びた頬が、露出した肩と、
さらには透けて見える白い薄衣と相まって、女が持つ官能を匂い立たせて
いる。女の体臭まで、画面越しに伝わってくるようだった。
文句なしの画だ。
でも、この女はもう、たねではない。
福川たねという実在の人間を通じて、青木繁の筆が作り上げた夢幻の世界。
そこに棲まう<運命の女>だ。
たねは、うれしいような、寂しいような、よくわからない気持ちになった。
たねがいなければ、この作品は生まれなかったろう。
でも、青木にとって、たねが<運命の女>を見るためのよすがにすぎない
なら、他にもモデルたりうる女はいるはずだった。
好敵手と目にするロセッティがそうであったように、青木もまた次の女を
探し求めるのだろうか・・・・。
「女を美しくするもののひとつに、恥じらいがある。お前は、勝ち気に羞恥の
混じった顔が一番いい。俺はそれを引き出して、描いたんだ」
たねの内心など露知らぬ様子で、青木は胸を張り、満足そうにカンヴァスを
見つめている。
「最後まで仕上げないのですか?」
背後はまだ薄く、きちんと塗られていない。
「これ以上手を入れても良くはならない。ひとまず十分だ」
「よかったですね、青木さん」
たねがにっこり微笑むと、青木は初めてたねが素裸だと気付いたかのように、
急にしどろもどろになり、視線を逸らした。
「早く服を着てくれ。目のやり場に困る」
「す、すみません」
2026年02月14日
<鬼才 111
赤神諒 第Ⅳ章 海の幸 5>
青木が頭の天辺から素足まで、舐めるようにたねを改めて見た。
今は着衣なのに、なぜか素裸でいるように恥ずかしい。
強過ぎる視線を避けて、たねは畳へ目を落とす。
「わたしに、何かして差し上げれれば、よろしいのですけれど・・・」
「それじゃ、たね。もう一度脱いでくれ。今度は全部だ」
驚いて顔を上げると、自分を見つめる画家の真剣な表情があった。
「え?でも、下半身は描かないのでしょう?」
「言う通りにしろ。早くしねぇと、頭の中の世界が消えちまう」
たねは黙って頷き、再び窓を閉めた。
ひと思いに、服を脱いでゆく。
さっきと同じ恰好になって、一旦手を止めた。
自分はモデルなんだと言い聞かせながら、湯文字を外す。
一糸まとわぬ姿になって振り返った。
間近に藝術家の眼がある。
羞恥で、たねは顔から首筋まで赤くなっているに違いない。
椅子に座り、いつもの恰好をした。
顔を上げると、射るような視線と目があった。
(わたしを通して、青木さんが<運命の女>を見ようとしている・・・)
青木はボロ布で筆の汚れを拭き取ると、平パレットに朱色を足しながら、
満足そうに頷き、丸筆を取った。
画家はカンヴァスに向かい、筆を重ねてゆく・・・。
締め切った部屋の暑さで、たねの体が汗で再びじっとりと濡れてきた。
話しかけてはいけない。
青木は、別の世界にいるのだ。
何も言われないので、たねはじっとそもまま座っていた。
小一時間も経っただろうか、黙々と筆を走らせていた青木が、ようやく
パレットを置いた。
2026年02月13日
<鬼才 110
赤神諒 第Ⅳ章 海の幸 4>
たねは、全身、汗まみれで耐えた。
体臭がするのと、汗で光ってきた体を見られるのが、恥ずかしくてたまらなかった。
「汗を拭いてもいいでしょうか」
「そのままがいい。俺に話しかけるな」
怒ったように、ぶっきら棒な返事だ。
垂れて来た汗が目に入っても、青木の視線は厳しさを失わない。
画家は時折パレットナイフでカンヴァス上の絵具を削っていたが、やがて投げ出す
ようにパレットを置いた。
「出来上がったのですか?」
「駄目だ。まだロセッティには勝てねぇ。やっぱり俺が未熟なのか・・・」
たねは立ち上がって青木に背を向け、手ぬぐいで体を拭いた。
素早く着物を身に着けてから、窓を開け放った。
おもむろに青木のほうへ回り込み、イーゼルに立てられたカンヴァスを見た。
目元と口元がたねに似ていたが、自分の顎はもう少しふっくらしている。女の目が
より大きく、髪が縮れているのも違うが、モデルはたねだとわかる。胸の谷間近くまで
描かれており、画の中の女はまだ服を着ていなかった。
「いい絵だと、わたしは思いますけれど・・・」
自分に似た女が、しっかりとした目で見つめ返してくる。
色々な展覧会へ行ったが、これほど素晴らしい作品は数えるほどだ。
「お前はいったい、誰と比べてんだ?そりゃ、日本の二流画家どもの駄作と比べりゃ、
断然上さ」
「何がいけないのでしょう?」
青木は全く納得していない様子だ。
画の中の女とたねを見比べて、悔しそうに頭を振った。
「こいつは色気があるだけで、どこにでもいる普通の女だ。男を惑わす魔性が足りねぇ
んだよ」
言われてみると、ただ女らしい表情が描かれているだけかも知れない。これがたねだ
と思うが、青木が描きたいのはたねではなく、空想世界にいる女らしかった。
2026年02月12日
<鬼才 109
赤神諒 第Ⅳ章 海の幸 3>
結局、たねは青木の<運命の女>になれないまま終わってしまうのだろうか。
それは、嫌だ。
「わたしが着ている物を脱いだら、いいのでしょうか?」
勇気を出して尋ねてみると、藝術家の険しい顔が少し和らいだ。
「脱ぐのか?」
じろりとたねを見る眼に好色はない。むしろ怖い目つきだった。
「裸婦像、なのでしょうか・・・・」
たねはモデルのように、人前で裸を見せたことなど、もちろんない。絵であっても、
自分の乳房が人目に晒されるのは恥ずかしかった。
「心配ない。絵には服を着せる」
不思議に思った。それなら、服を脱ぐ意味はどこにあるのだろう・・・・。
「窓を閉めてもよろしいですか?」
「好きにしろ」
青木はすでにパレットを持ち、椅子に座り直している。
たねはひと思いに帯を解いた。さらに袴と小袖を脱ぎ、畳の上にたたんで置いた。
恐るおそる下着を外すと、白い小ぶりな乳房が露わになった。あわてて胸を隠す。
青木の構図ではあくまで上半身で、湯文字まで脱ぐ必要はないと思い、そのまま
腰かけた。
青木がじっと見ている。恥ずかしくて、目を合わせられなかった。
「いつものように座って、こっちを見てくれ」
強い口調に従って腕を下ろし、膝の上に置いた。
体の左側を向け、首を傾ける。青木はたねの体ではなく、顔を睨んでいた。
「描けるかも知れない。そのままだ」
青木はパレットに油壺を差し直すと、画用液を注ぎ足し、細筆を取った。
時折たねに視線をやりつつ黙々と筆を動かす姿は、藝術に命を懸ける鬼のようだった。
窓を締め切ったせいで、たねの体が汗ばんでくる。
2026年02月11日
<鬼才 108
赤神諒 第Ⅳ章 海の幸 2>
青木は誇らしげに自分の絵の話をし、高邁な藝術論を語るが、たねについて、
ほとんど何も尋ねなかった。
もちろんえ手を握ったこともない。ワットマン紙や絵具を勝手に持って帰るから、
画材を入手するためにたねの下宿へ通っているような気さえした。
でも、気に入った女だからこそ、青木は自分を<運命の女>のモデルとしたはず
なのだ。
「もういい。しばらく休んでろ」
青木の集中は、長く続かない。
すっかりいやになった様子で、丸筆を投げ出し、マッチを擦って煙草を吸い始めた。
これまでも、描いている途中で別に何かを思いつき、他の絵を描き出したことも
あった。『森の暮色』は、まるで外光派に真っ向から喧嘩を売るように、闇に浮かび
上がる深淵の樹影を画面いっぱいに描き出した。『夕日』は、沈んだ色調の中に
水辺の煉瓦造りの建物を朧に浮かび上がらせた。どの作品もたねは好きだ。
描くかと思えば、「今日はどうも興が乗らん」と言い、たねに酒を買ってこさせて
飲んだりもした。
今日も描けないだろうと思い、たねは少しほっとした。
二人は奇妙な関係だった。『女の顔』が完成してしまったら、青木はもう来なくなる気
がした。それは寂しい。
「お前がモデルなら描けると思ったんだがな。俺はロセッティより、画力ではすっと上の
はずなんだ」
大言壮語ではない。技巧において、青木はすでにラファエル前派の画家たちと肩を並べて
いると、たねも思う。
卒業制作の自画像を描いている時に、青木の「眼」のデッサンを見せてもらった。
人の顔を描く場合、「目」は一番難しい。
自分の顔を鏡で見ながらコンテで紙にさらさら描いただけだが、一つの藝術作品と
言っていいほどに精密で、写真にも負けないと思った。
思い道りに描けない青木が以前、たねに「服を脱げ」と言ったことがある。もちろん
拒んだが、青木は気分を害したらしく、しばらくの間、下宿にも来なくなった。
2026年02月10日
<鬼才 107
第Ⅳ章 海の幸 1>
十五 福川たね 2
ーー明治37年(1904年)7月、
東京・御茶ノ水
「動くな、じっとしていろ」
青木の棘々しい苛立ちが、たねにも伝わってくる。
もう十回はモデルになったが、青木の『女の顔』はいつまでも出来上がりそうにない。
「おまえをモデルに<運命の女>を描きたいんだ」と青木に言われた時、たねは
心が震えた。天才の名画に自分が描かれ、歴史に残るのだ。
速筆の青木がただの肖像画を描くなら、半日も要らない。青木は眼前にいる
福川たねの肖像など描いていないのだ。
青木繁という画家と出会って、たねは身に染みてわかった。
自分は絵が好きなだけの凡才だ。青木が歯牙にもかけない坂本の足元にも、たねは
遠く及ばなかった。
青木の頭の中には、藝術しかない。
たねを見る眼差しも、藝術家のそれだ。
まさしく、「藝術の鬼」と呼ぶに相応しい若者だった。
たねは、そこにどうしょうもなく惹かれてしまう。
「少し暑いですね」
窓も開けてあり、今日はまだ涼しいほうだが、夏だから額が汗ばんでくる。
汗を拭おうとすると、「お前は汗を搔いているほうが、具合がいい」と止められた。
青木が自分を見つめている。
目を逸らしては駄目だと言われるから、じっと見返す。
たねは青木と恋仲だと周りから見られていた。でもこれは、はたして恋なのだろうか。
青木の天才にたねがどうしょうもなく魅せられているのは、本当だ。
ずっとそばで話を聞いていたいし、驚くような絵が出来上がってゆく過程を、
間近で見ていられるのは幸せだった。
心がときめくのは、青木がたねの大好きな絵を描くからだ。その絵が他の誰にも
描けないからだ。
でも、青木はどうなのだろう。
2026年02月09日
<鬼才 106
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 40>
「私たちも黒田先生にご挨拶に行こう」
熊谷の誘いに、高木や森田たちが頷いた時、青木が「エヒョウ!」と、紫陽花を
の天辺めがけて放り投げた。
緑葉にうまく刺さった紫陽花が、ちょっとした飾りになった。
「あばよ。今後の俺の活躍は、新聞でよめ」
片手を上げて去ろうとする青木を、熊谷は引き止めた。
「せめて先生方に挨拶くらいしろ」
「挨拶をしたら、絵が巧くなるのか?」
青木の口に例の嘲笑が浮かんだ。
「卒業生が恩師に挨拶もしないなんて、礼儀に悖るだろう」
高木がたしなめると、青木は意固地なった。
「藤島先生には、節句の会で歌まで披露して挨拶したよ。他の二流画家に世話に
なった覚えはねぇな」
「今後のことを考えるとうまくないよ、青木君。ただ挨拶をするだけじゃないか」
森田が諭すと、青木はハッ、ハッ、ハッといつものように大声で笑った。
「俺の作品は、世の中が認めてるんだ。落とせるもんなら、落してみやがれ。
てめえの目が節穴だってことを、世に晒すだけだぜ」
「この後、別に用事があるわけじゃないだろう?行こうよ、青木君」
「奏楽堂でモオツアルトを聴く。それが今、一番大事な用事だ。じゃあな」
「青木、この前も言ったけど、明日は同期の皆で、黒田先生のお宅に伺って
ご挨拶する。やはり君だけが来ないのはうまくない。赤坂見附の駅に、朝十時だ」
懸命に訴える高木の肩を、青木がなだめるように叩く。
「落ち着いて考えろ。俺より下手くそな奴に、どうして俺がわざわざ頭を下げに
出向かなきゃならねぇんだ?」
もう何を言っても無理だろう。
青木は他の学生たちを押しのけ、美校をでてゆく。
これから二人はそれぞれの道を歩み、生涯にわたり絵を描き続ける。
熊谷は、青木と再会する日が、今から楽しみでならなかった。
2026年02月07日
<鬼才 105
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 39>
記念撮影が終わり、皆が散らばり始めた。
和田は真っ先に黒田のもとに駆け寄り、地面にくっつきそうなほど深々と頭を
下げている。
「なぁ、高木。お前はもう絵をやめちゃうのか」
スダジイの下で紫陽花を手にしたまま、青木が高木巌を捕まえていた。
「俺は、お前のような凄い連中と一緒に学べただけで、幸せさ。熊本の天草って
場所に、図画教員の務め口を見つけたんだ。やけに遠いし、縁もゆかりもない
場所だけどね」
男気のある高木は皆に好かれたが、同期の中で画才は数等劣っていた。本人が
一番よくそれを知っていただろう。
東京育ちの高木は、九州も未訪で、不安らしい。
その背を青木が叩く。
「俺も天草には行ったことがねぇが、安心しろ。九州人と言っても、俺よりは
まともな奴ばかりだ。自然も描くに値するし、食い物も美味いぞ」
「いつか遊びに来てくれ。大したもてなしもできまいが、歓迎する」
「ああ。俺が巴里から戻った後だろうな。『画界の歴山大帝、天草に現る』って、
新聞に書き立ててもらおうぜ。欧州の美酒を土産に持ってくるか、楽しみに
待っててくれ」
名残惜しさに、学生たちが退散する気配はなかった。
紫陽花とヨレヨレの着物で、青木はいあやでも目立つ。
森田や政宗ら在学生たちも祝いに来ており、青木グループの画学生たちが次々と
集まってきた。
他方、黒田の周りにも、和田や児島たちを中心に人だかりができている。画業
で身を立てたいなら、生かすも殺すも黒田の胸三寸だ。
おべっかを使う気は毛頭ないが、熊谷にとって、黒田は偉大な先輩であり、恩師だ。
礼を欠かすわけのはいかない。
2026年02月06日
<鬼才 104
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 38>
青木は、卒業制作の自画像の左下に「かつて東京美術学校に在るの日 青木生」と
書き入れていた。
描いている途中でビリジアンとリチウムが切れてしまい、構想とは違う暗い調子に
なったそうだが、暗がりに青木らしい鋭い眼光が煌めいている佳作だ。ちなもに、
実物よりも美男である。
「君が教授になったら、画学生の絵に片っ端から手を入れるんだろうな」
「下手くそな絵にはな。巧い奴には、自由奔放に描かせるさ。何をやってもいい。
新しいことをやるのが、藝術だ」
校内に入ると、青木を探し回っていた高木と関屋に出会い、四人で駆けた。
スダジイの巨樹の前では、教授と卒業生たちが五列に並んでいた。
西洋画だけではない、日本画や遅刻、図案や金工など、これまで毎日のように
顔を突き合わせてきた学生たちが巣立ち、それぞれの場へ向かう。もう二度と会えない
同級生も多いだろう。
「この構図で、一番目立つのは後ろだ。お前らは幹の左側へ行け」
熊谷は遅れた詫びのつもりで、深く一礼してから左側へ回り込み、スダジイの枝を
掴んだ。
青木はどこかと探せば、ちょうど真ん中に紫陽花が写るように捧げ持ちながら、
堂々と立っていた。
やはり今日も、主役は青木らしい。
負けないように、熊谷も左右の両手を広げ、巨樹の幹と枝へ手をやった。
青木と過ごした四年間は、熊谷の一生の宝だ。
ただ一点の迷いもなく、これほどまでに藝術に打ち込む人間がいるとは思わな
かった。
青木にとっては、生活さえも藝術のためにあり、決してその逆ではなかった。
現実は常に藝術に奉仕すべきであり、劣後するのだ。
青木と出会ったからこそ、熊谷も一生涯、絵を描き続けようと心に決められたのだ。
2026年02月05日
<鬼才 103
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 37>
道すがら、青木は大きな白い紫陽花をぼきりと折り、手に持った。
「やっぱり青木は、どこにも就職しないんだね」
「俺の仕事は絵描きだ。他に何をするってんだ?」
美校を卒業しても、絵で生計が立てれる者はまずいなかった。白馬賞受賞者でも
同じだ。
絵を描き続けたところで、西洋画はまず売れない。だから、ごく一握りの運に
恵まれた画学生たちのように、実家や篤志家からの支援が得られない限り、どこかに
職を探すのが当たり前だった。
「私は樺太へ行くことにしたよ」
熊谷は樺太漁業調査隊の写生係の仕事にありつけた。絵を描けるだけで、
幸せだと思っている。
「モリ、お前はいつまでも人間写真機をやるつもりなんだ?」
畏友が眉をひそめている。
青木はすでに自分の進むべき道を見つけているが、熊谷はまだだった。
青木が揶揄する実写にひとまず専念してはきたものの、いつまでもやり続ける
つもりは毛頭なかった。
「描き続けろよ。お前なら見つかるさ。モリには他に描くべき絵があるはずだ」
そうだ。
自分の自分にしか描けない絵が、きっと見つかる。
熊谷はそう、信じていた。
「亀の歩みでも、ゆっくり探すさ。何があろうと、絵筆は捨てない」
「樺太で死ぬなよ。藝術家は、描くために生きるんだ」
いずれ樺太も戦場になるだろうか。運を天に任せるしかなかった。
「君は、くれぐれも飢え死にしないようにな」
「ああ。もし俺の絵を日本人が買わねぇなら、藤島先生に頼んで、さっさと巴里へ
売りに行くさ。十年後には、世界のアオキになって戻ってくる。黒田を追い出して、
俺が主任教授だ」
青木が教授を務める美校を想像すると、愉快になってきた。
2026年02月04日
<鬼才 102
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 36>
奏楽堂からチェロの音色が聞こえてきた。東京音楽学校も卒業式の最中らしい。
熊谷は玄関から入り、楽屋の前を過ぎて階段を上がった。
やがて、大きなホールの前に出た。
そっと扉を開けて客席を窺うと、案の定、後方の席で目を閉じ、腕組みをしながら
演奏に聴き入る青木の姿があった。
足を忍ばせて近づき、隣に座る。
在校生が卒業生を送るために演奏していた。バッハの無伴奏チェロだ。
熊谷も音楽が好きで、よくここへ演奏を聞きに来た。もともと熊谷が青木と非常に
親しくなったきっかけも、奏楽堂へ通っていたからだ。受付の老人とも仲良くなり、
挨拶すれば通してもらえた。
青木は時折音楽からも画想を得ていた。あと少しで幻想世界が具体化するとき、音楽が
手助けをしてくれるという。画集や書物だけでなく、耳から妙なる調べを体内に注ぎ込む
わけだ。逆に世界を創っていると音楽も浮かぶらしく、習ったこともないヴァイオリンを
借りて、それらしく弾きこなしもした。
サラバンドが終わると、熊谷は青木の耳元で囁く。
「記念撮影の時間だ。青木グループの首魁がいなくては形にならんだろう」
「写真も大事だが、ガヴォットを聞き逃すのは美神の寵愛をドブに捨てるに等しい」
熊谷は仕方なく、付き合うことにした。
軽快と勇壮を兼ね備えたチェロの音色に、青木はすっかり酔い痴れている。
すでに教授たちも集まっているはずだった。はたして間に合うだろうか。
演奏が終わるや、熊谷は青木を連れて奏楽堂を出た。早足に美校を目指す。
「バッハとモオツァルトは、まさしく音楽会の歴山大帝だな」
「さすがの歴山君でも、今からじゃ、写真の真ん中には陣取れまいね」
「絵と同じさ。やりようによっては、地味な場所でも主役になれる。むしろ、ど真ん中
は埋没するだけさ」
2026年02月03日
<鬼才 101
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 35>
十四 熊谷守和 2
ーー明治37年7月、
上野・東京美術学校
梅雨が明けた夏の青空は、熊谷ら卒業生の新たな人生の出発を祝福しているのか。
日露戦争の最中であり、卒業式は簡素でそっけなかったが、街道沿いに植えられた紫陽花は
まさに見頃で、若者たちの門出に色を添えてくれていた。
「モリ、青木が見当たらないな」
洋服に蝶ネクタイの和田が辺り見回しながら声をかけてきた。
今日は多くが洋装なのに、青木はいつものヨレヨレの着物姿だから、いればすぐに
わかるはずだ。
「式の最中に出て行ったきりだね」
「また図書館か、博物館かい?変わらないねぇ」
呆れた様子で、和田が肩を竦める。
青木の頭の中では、いつも世界が創造されているらしい。
膨大な量の画集の複製画を目に焼き付け、古今東西の神話や歴史を読み漁り、青木の中に
蓄えられた無数の画像と物語が熱成し、次々と発酵してゆく。
本人によれば、それは神の酒のごとくで、淡麗な味わいもあれば、芳醇な香りを放つもの
もある。一生をかけても描き切れないほどの幻想が自分の中で<渦>になっているのだと、
青木はむしろ悩みのように熊谷に打ち明けた。
「もうすぐ写真撮影の時間だ。あの目立ちたがり屋が写らないとは思えないけどね」
「探してくるよ。きっと忘れてるんだろう」
熊谷は、そばにいた高木と関谷と三人で手分けして青木を探し始めた。
美校を出、四軒寺通りを渡って、東京音楽学校へ向かう。心当たりがあった。
青木は目の前のことに頓着せず、周りの人間への迷惑も考えない。他のすべてに優先して、
「絵」があった。
なりふり構わぬ藝術への情熱は、もはや狂気に近い。
熊谷も浮世離れして藝術に打ち込む変わり者だが、食い扶持と生活の手当はしていたし、卒業後
の就職も決めてある。
だが、青木は微塵も考えていまい。
2026年02月02日
<鬼才 100
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 34>
「和田は猿真似の職人だから、たぶん他の道が向いてるよ。そんな雑魚より、藤島先生。
俺はもうすぐあんたを越えてやる。俺にはもう、手に掴めるように天平の世界が見えるんだ。
女たちが奏でる横笛の音色まで、はっきりと聞こえる。天平時代だけじゃない。
図書館で読み漁った神話や歴史が、俺に早く描いてくれって叫ぶんだよ。
次から次へと俺の中で世界が生まれてゆく。発想もモチーフも、全部揃ってる。
足りねぇのは、絵具とカンヴァスだけだ」
青木は自信満々の表情で夜空を見上げていた。
藤島の忠告が届いたのだろうか。
この異端の天才が世に広く認められれば、既存の二流画家たちにとって、大きな脅威と
なる。その一点だけで、青木を画界から排除する理由としては十分だ。
青木の不動の自信に、藤島は一抹の不安を覚える。
「青木君。私だって、ひとつの世界に留まるつもりはないよ」
「そう来なくちゃな。猿真似の三流たちの中で輝いても、ちっぽけなお山の大将だ」
「手強いライヴァルが現れたが、次の白馬会展には私も自信作を出品する。『蝶』と
いうタイトルでね。この秋に輸贏を決しようじゃないか」
「そいつは楽しみだ。俺は浅井忠も、中村不折も丸山晩霞も超えた。もう、日本にいる画家は、
あんた以外、誰も認めてねぇ」
「君は何を描くつもりなんだい?」
その気になれば、青木は重鎮たちに比する写実を描ける。
だが、そうはすまい。『黄泉比良坂』がいかに高められるのか、藤島は一藝術家として
楽しみでならなかった。
「実はまだ何も考えてねぇんだ。だけど、人間写真機の三流画家どもが腰を抜かす名作を
描くってことは、決めてある」
どこまでも自信に満ち溢れた若き鬼才が、ハッ、ハッ、ハッと大笑いした。
遠巻きで二人の様子を見ていた画友たちが集まってくる。
藤島が同僚の姿を探すと、部屋の片隅に、赤ら顔で居眠りする長坂がいた。
2026年01月31日
<鬼才 99
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 33>
藤島とて、藝術家としての野心はしたたかに秘めている。
それでも恩人であり、洋画界の帝王たる黒田には、絶対の忠節を尽くしてきた。藤島は
青木と同じく世紀末美術に強く惹かれるが、もしも黒田が望まないなら、しばしやめてもいい。
「黒田先生が君を拒否されれば、皆がそれに従う」
「へぇ、藤島先生もかい?」
「そうだ。私は黒田先生に逆らったことは一度もない。これからもないだろう。それが、生涯に
わたり好きな絵を追い求めるための、私の処世術だ」
藝術家が自分の思い通りに作品を描くためには、俗世を上手く渡らねばならぬ。地位も金も
あってこそ、藝術は作り出せる。
青木も黒田の傘下に入りさえすれば、生涯の安泰が保証されよう。日本の力を世界に示すために、
黒田も藤島も協力を惜しむまい。
だが、青木が黒田を拒むなら、藤島にしてやれることはわずかだ。画界の醜い裏事情は口に
しないが、青木の進むべき道は明らかだった。
「黒田先生も、君を評価なさっている。だから、白馬賞が与えられたんだ。もし君が持てる才能を
存分に発揮して、世界で羽ばたきたければ、今は膝を屈したまえ。地歩を固めなければ、たとえ
天才でも輝けはしない。大きく飛躍するためには、誰でも一度は屈むのだ」
これまでは藤島が美校にあって、密かに青木を守ってきた。黒田との間を取り持ちもした。
だが、藤島が日本を離れた後、わざわざ守ろうとする者はいまい。
「心を殺して作った卑屈な藝術で、人の心を動かせるのかい?」
青木は口を横広に引っ張りながら、嗤ってみせた。
「世に出るまでの辛抱だよ。藝術を評する人間もまた、心を持っている。人間の感情を離れて、
受章も入選も存在しない。和田君を少しは見習いたまえ。彼は君の才能の百分の一もないが、
着々と足場を築いている。残念ながら、世界には全く通用しないがね」
むしろ寂しそうに、青木は頷いた。
2026年01月30日
<鬼才 98
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 32>
「そして俺は、誰も見たことのない絵を巴里の連中にぶっつけて欧州に風を巻き起こしてやる。
青木繁が世界の藝術の中心になるんだ」
若き鬼才の大言壮語を。藤島は心地よく聞いていた。
藤島と同じく、いずれ青木も巴里で挫折を味わうだろう。だがこの若者なら、乗り越えられる。
丸太ほども願わなければ、棒ほど叶うはしないのだ。
「日本に戻ってきたら、新派だ旧派だなんてヘボな諍いは丸ごと飲み込んで、世界でまだ誰も
やっていない藝術を画学生たちにやらせてやる」
「その意気だよ、青木君。私は君の作品が好きだ。だからこそ、君の活躍を願う者として、
一つ忠告しておきたい」
藤島は青木に身を寄せ、心持ち小さな声で告げた。
「君が独り立ちできる日まで、強き者を敵に回さないことだ。せめて、卒業してからの
数年だけでいい」
「猿真似だけの連中に、頭を下げろってのか?」
青木が口を捻じ曲げ、顎を突き出していた。
この頼もしい負けん気が他の日本人画家には欠けているにだが、今の青木にとっては
命取りになりかねなかった。
「学識のある君なら、面従腹背という言葉の意味を正しく知っているだろう。断言しておく。
君が黒田先生に逆らっても、いいことは何ひとちない」
藤島は黒田に救われた。
三重県立中学校の図画教師をしながら、家長として老母と弟妹を養う苦しい生活の中で、とても
藝術などに挑戦できなかった。そんな時、東京美術学校に西洋科が設置されることになり、
黒田から手紙が来た。
二、三度会っただけの仲なのに、美校の助教授にしてくれるという。むろん薩摩藩士の血筋という
幸運に恵まれたからだが、藤島は狂喜した。
おまけに、官費で四年間のフランス留学も果たして帰国したのである。
2026年01月29日
<鬼才 97
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 31>
「描いた絵が売れないのは、私たちも同じだよ、青木君」
社会が西洋化しても、国民の生活まで急に変わりはしない。
やはり床の間には、洋画よりも日本画が似合う。ごく一部の例外を除き、油絵はほとんど
売れなかった。
「そいつは違うと思うぜ、先生。猿真似の駄作ばかりだから、誰も買わねぇんだよ。本物の
藝術じゃないって、素人にまで見抜かれちまってるのさ」
手厳しい言葉に、藤島は苦笑するしかなかった。
「君の絵なら、売れるのかい?」
「そうでなきゃ、世の中おかしいじゃねぇか。もし日本人が買わねぇなら、巴里に行って売り
さばいてやるさ」
庭でひときわ大きな歓声上がった。
「懐は寂しくても、天は君に素晴らしい友人たちを与えたようだね」
「あいにくと、師匠筋には恵まれなかったがね」
青木は皮肉っぽく笑う。
「日本で一流の西洋美術を求めても、それはまだ無理というものだ」
「入学して三日目にわかったさ。だから、俺が巴里に行く時には、もろもろ手配を頼むぜ、先生」
「人使いの荒い若者だ。君を西欧画壇に紹介できるのは光栄だがね。実は、秋の白馬会の後、
私は四年間、フランスとイタリアに国費留学させてもらう」
青木がひゅうと口笛を吹いた。
「羨ましくてたまんねぇな。最近はモローにルドン、印象派の連中の絵を、この目でじっくり
見たい。カラヴァッジョにミケランジェロ、俺の認める藝術家の絵が所狭しと並んでるんだ。
俺なら毎日、美術館に行って、片っ端から自分のものにする。まだ生きている奴には会いに行く」
青木は夕空を見上げていた。
ほとんどの画家たちは、本物の西洋画の実物を数えるほどしか見ていない。白黒画集から
では得られない学びが、そこにはある。
2026年01月28日
<鬼才 96
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 30>
「ああ、渋みがあって、実に美味い酒だよ。先生、くやしくなぇか?日本の酒は絶品でも、
この国じゃ、本物の葡萄酒をまだ作れねぇんだ」
青木の言わんとするところは、むろん明らかだった。日本画は一流でも、洋画は
世界から相手にされない。
「状況は洋画と同じだよ。まだこの国では、葡萄酒が広く受け入れられていないからさ。
でも、少しずつ時代は変わる。私たちが変えてゆくんだ」
藤島は青木をすでに同志として見ていた。いつか巴里の雲の下で、藝術論をぶっつけ
合う日が来るだろう。
「ああ、俺が変えてやるよ。酒のほうは荷が重いがね」
「日本の酒蔵より、青木君が授業料を納めてくれて、私はホッとしたよ」
「まったく、ひどい話さ。追い詰められて、始めてアルバイトをやったけど、全然
足りなかった」
青木はどこか他人事のように憤慨している。
「結局、親友が新潟旅行のために貯めてた金で払ってくれたよ。なんで俺は、いつも
こんなに貧しいんだろうな」
青木は、哲学者が一生涯の難問を抱え込みでもしたように、しきりに首を捻っている。
藤島に限らず、白馬会の重鎮たちはいずれも運に恵まれた者たちばかりだ。藝術への
情熱や才能ゆえに、今の地位にあるわけではない。
和田英作は鹿児島生まれで、黒田の同郷の弟子だから助教授になった。久米圭一郎も
運のいい男だ。久米の父は佐賀藩主鍋島直正の側近で、トントン拍子の出世をした。
おかげで金に困らぬ境涯で、20歳の時に自費でフランスへ留学した。
同じく佐賀出身の岡田五郎助は久米を通じて黒田に師事し、美校の助教授となり、
その翌年には文部省派遣の第一回留学生となった。
藝術においても薩長土肥が大きな力を持つ。不遇をかこつ旧久留米藩の貧乏士族は、
教授陣に好意を抱きにくかろう。
2026年01月27日
<鬼才 95 赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 29>
「おのおのがた!藤島助教授と長坂助教授のお出ましであるぞ」
如才ない和田が二人を見つけるや、大声を張り上げた。
青木以外の皆が畏まる。
「よう、先生たち。来てくれたのか。こっちだ、こっちだ」
大げさに手招きする青木は、いつもながら酷いなりだった。
いずれ世界で認められた青木が日本に凱旋する時、若き日の貧困と苦労を懐かしく
思い出すだろう。
「諸君の前途を祝して、私たちから上等な日本酒を差し入れさせてもらおう。黒田
教授からは赤葡萄酒をお預かりしている」
藤島の言葉に、画学生たちから一斉に歓声が上がった。
白酒ですでにほろ酔い加減だが、このまま夜通し騒ぐ気かも知れない。
「じゃあ、お礼にいっちょやるか」
どこから借りてきたのだろう、青木は三味線をとって構えると、口をすぼめて『春雨』
を弾きならした。
いい声で、意外に上手だ。
藤島の隣で聞き惚れている森田に尋ねると、誰に習うでもなく、見様見真似で
習得したのだという。
端唄を幾つか披露した青木は、次に笛を奏でた。
ほどなく青木の独演会が終わり、盛んに話しかけてくる画学生たちに藤島が応じるうち、
日も傾いてきた。
曙町に住む高島宇朗なる同郷の詩人も参加していた。その友人で、近ごろ藤島もよく
名を耳にする、詩人の岩野泡鳴とも話した。
学生に人気のない長坂が部屋に上がり込み、独り退屈そうにしている様子が見えた。
あまり長居はできまい。
藤島は縁側で赤葡萄酒を呷る青木のそばに腰かけた。
「黒田先生の差し入れは、お気に召したかい?」
青木は手にした酒瓶を、じっと見つめている。
2026年01月26日
<鬼才 94
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 28>
「だけど、藤島君。あの跳ねっ返りは、太平洋画界に後足で砂をかけたろう?
うちも、せっかく白馬賞をくれてやったのに、天狗になっただけじゃないか。
白馬会に仇なさなければいいがね」
太平洋画界は青木に対して何も与えられず、天才を持て余した。だが、白馬会も
同じだった。青木のはもう、日本で学ぶべきことがないのだ。むろん本人もそれに
気付いている。
「彼の実力は、西洋画界始まって以来だと、黒木先生も言われている。日本を一歩
出れば、新派も旧派もないさ」
藤島はなるだけ画業に専念し、両派の争いから距離を置いてきた。むろん青木も、
日本西洋画壇の小さな争いなど、端から相手にしていない。
「黒田閣下のご命令なら、もちろん従うがね」
長坂は黒田の忠実な門下生だ。
本来なら、美校教授を務める実力などないことを、本人が一番よくわかっているだ
ろう。青木もいち早く見抜き、長坂の授業には出なくなった。
井戸端で野菜を洗う中年婦人たちのそばを通り過ぎた時、青木独特の笑い声が聞こえてきた。
「なるほど。確かにお化けたちが住んでいる屋敷だ」
藤島がおどけても、長坂は無愛想に押し黙ったままだ。
紙雛や屏風まで作ってあり、白酒も用意されている。
仙人のような熊谷に、野心家の和田、好漢の高木、温厚な森田に、青木を崇拝する
政宗徳三郎もいる。
関屋、安東、野口、児島、村上もいて、勢揃いだ。見慣れない顔は不同舎の塾生たちだろう。
藤島に気付き、畏まって礼儀正しく挨拶してきた若者は、確か坂本と言ったか、青木の同郷の
親友で、以前に「こいつは頑張ってるから、美校の教授くらいなら十分になれるぜ」と紹介
されたことがあった。
2026年01月24日
<鬼才 93
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 27>
日本の画界は国内しか見ていない。
英国人が日本画を描けないように、しょせん西洋人には敵わないと諦め、偉大な西洋画家たちを
はるか遠くに仰ぎ見ていた。長坂のように留学していない人間はなおさらだ。
これに対し、藤島と黒田は、海外で味わわされた屈辱を晴らしたいと願ってきた。
ところが、結果は惨憺たるものだった。新旧両派が呉越同舟で挑んだ巴里万博で、
日本人はことごとく敗れた。
黒田は師匠コランのおかげで銀賞こそ得たものの、あえて日本の無名な若手に
金賞が与えられ、その下に黒田が位置づけられたのは、日本人が描く絵としては
ニ番目に優れているが、およそ西洋画としては評価の対象ではないとの意味だ。
あれ以来、黒田は「後は任せたよ、藤島君」と、すっかりやる気をなくした。
そんな時に美校に入学してきた画学生が、青木繁だった。
異様な風体をした驕慢な若者は、最初から日本の西洋画壇など歯牙にもかけず、
ただ世界を目指していた。
ゆえに、西洋画の前にひれ伏し猿真似を続ける教授たちを正面から侮蔑した。
その典型が長坂であり、親玉が黒田というわけだ。
「長坂君。彼は欧州に渡れば、きっと面白くなるよ」
藤島は青木の『黄泉比良坂』などの神話画稿を見た瞬間、ルーブルで味わった時に
渡り合えると直観した。
時代は二十世紀に入ったのだ。
ただ西洋で学び、持ち帰るだけの時代を、もういい加減に終えるべきだ。
世界が刮目する藝術家を、この日本から出したい。
それが教育の使命ではないのか。あのマグマが爆発するような才能が開けば、
それも決して夢ではないと、藤島は確信していた。
2026年01月23日
<鬼才 92
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 26>
十三 藤島武爾 1
ーー明治37年3月、
東京駒込・曙町
「忙しい美校の教授が、わざわざこんな遠くまで出向かなきゃならんのかね?」
棘を含んだ問いに、藤島は肩を竦めながら、同行の長坂孝太郎を振り返った。
「突き合わせてすまないね。お化け屋敷は、まだもう少し先らしい」
先日、青木グループが節句祝いをするので、教授たちにも来てほしいと熱心に
申し入れてきた。
意外にも黒田が乗り気になり、藤島と二人で行くつもりだったが、セントルイス万博の
件で政府に呼ばれて差支えになったため、代わりに美校で暇そうにしていた長坂を誘った
のである。
「だいたい藤島君は、あの若造を買い被り過ぎだよ。停学にならなかったのは、実に
奇っ怪な話だがな」
教授陣を等しく馬鹿にする青木に対し、同僚の長坂は当然ながら好意を持って
いなかった。
昨年の未払い分は藤島が密かに支払ったが、教授が一学生に肩入れするのはうまくない。
今年は長坂が事を大きくしたために、それもできなかった。どう工面したのか知らないが、
青木がようやく支払ったと聞き、藤島も胸を撫で下ろしたものだ。
かつて藤島はルーブル美術館に入り浸り、作品を通じて、美術史に燦然と輝く何人もの
天才たちに出会った。
神の悪戯で、あらゆる分野に天才は現れる。かって栄華を誇ったブルボン王朝の広大な
王宮では、天才たちが時代を超えた競演を繰り広げいた。
数いる天才の中でもずば抜けた格別の天才、黒田が言う<鬼才>たちの作品に、藤島は
圧倒された。
「今度のセントルイスでも、日本の洋画は見向きもされないだろう」
「そりゃ仕方がないさ。洋画は西洋のお家芸だからね」
長坂は気のない様子で即答してきた。
2026年01月22日
<鬼才 91
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 25>
「みんな四苦八苦して集めたお金だろう?君のご尊父の手前、中退は切腹ものだと
言ってたじゃないか。君は『何とかなる』って言うけど、何とかしているのは、
いつも僕たちだ!青木君は世の中を甘く見過ぎてる。僕たちに頼らないで、君も
ちゃんとアルバイトをして稼ぐべきだ」
坂本も青木のためにかなり無理をした。
他の皆も裏切られた気持ちだろう。
画友たちの不満を自分が代弁せねばと思い、坂本は強い口調で迫った。
皆に見つめられて、すっかり萎れた青木が、ぼっそり応じた。
「すまない。俺はどうしても『天平時代』の連作を描きたかったんだ。次から
次へと詩想が頭に浮かんでは、消えてよくだろう?カンヴァスに少しでも留めて
おきたかったんだよ。美校も、去年は勘弁してくれた。藤島に頼めば、今年も
たぶん何とかなる」
青木はさしたる根拠もないのに、いつでも楽天的だった。
坂本はやきもきする自分が馬鹿らしくなってきた。
「付き合い切れないよ。僕たちはもう知らないからね」
今回こそ、青木はお手上げではないか。誰も何もできまい。
退学ではなく停学だから、まだ時間の余裕はある。一度お灸をすえたほうがいい。
「美校だって、これから俺のおかげで世界に名が売れるんだ。考えてみりゃ、
ろくに何も教えてくれねぇくせに、授業料を払えだなんて、よく言えたもんさ」
青木は開き直って朗らかに言い放ったが、画友たちの無言の視線を浴びて、
頭を掻いた。
「わかった。画界の歴山大帝が情けねぇ話だが、お前ら、幾つかアルバイトを
回してくれねぇか。割のいい奴をな」
本当に悔しそうな青木の様子が滑稽で、坂本が覚えず噴き出すと、皆も声を
立てて笑った。
2026年01月21日
<鬼才 90
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 24>
「青木君。たぶん、それどころじゃないよ。美校から手紙を預かってきたんだ。
必ず君に手渡せってね」
青木は喜色満面で、森田から封書をひったくるように受け取った。
「たぶん。俺の『男の顔』をセントルイスに出品させてくれるんだよ。しつこく
頼んどいたからな。そうに決まっている」
坂本も縁側に出て、蝋燭で手元を照らしてやった。
乱暴に封を切って読み始めるや、青木は「バカバカしい話だ」
と、すぐに紙切れを放り上げた。
紙がひらひらと舞い、縁側へ落ちる。
「何が書いてあったの?」
拾い上げながら尋ねる坂本に、青木は気のない返事をした。
「俺を停学にするんだとよ」
「弱ったね。今度はどんな真似をしたんだい?」
公然と教授たちの悪口を言うこと、授業に出ないこと、制服を着ないことがいちいち
校則に反しているとしても、今に始まった話ではないはずだった。
「授業料を払わねぇからだそうだ」
美校の年間25円の授業料は4月に納入する決まりだが、4回の分割払いも
認められていた。
例えば小学校教員の初月給が月に十円と少しだから、決して半端な金額ではない。
教科書や画材も生徒の自弁であり、画学生の生活は苦しかった。
「だけど、青木君。この前、大騒ぎして払ったじゃないか」
あと少しだから、ちゃんと卒業させてやろうと、青木のなけなしの財産に、青木グループ
の画友たちが義援金を寄せて、支払ったはずだった。
「悪い。あの金は・・・・。カンヴァスと絵具に使っちまったんだ。美校へ行く途中で、
画材屋に寄り道したのがまずかったな」
坂本は呆気に取られてから、青木に詰め寄った。
「どうして君は、いつもそうなんだ!」
2026年01月20日
<鬼才 89
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 23>
「こいつ出品しても、黒田たちにはわからねぇだろうなぁ」
「当たり前だよ。僕も認めない。誰でも描けるそんな落書きが作品なら、僕たちが
絵を学ぶ意味はどこにあるのさ?この世に絵描きは要らないよ」
押し問答に坂本が気分を害し、色合わせの紙を返すと、青木はさも惜しそうに
取り上げ、しみじみと見入った。
「じゃあ、こいつはどうだ?これなら、人だってわかるだろう。油彩で描いたら
面白いと思うんだが」
青木は暗がりにあったもう一枚の紙を、坂本のほうへ滑らせてきた。
またか、と思った。
青鉛筆の輪郭で人物が描かれてはいても、黄緑と青と桃で鼻や頬が塗られ、青で
やっと首筋の影がわかるくらいだ。
「人物っていうけど、もしかして黄緑で鼻と頬を描くつもりなの?」
青木は嬉しそうにうんうん頷く。
「使いたい時に、たいてい欲しい絵具がないから、ふと思いついたんだよ。まさしく
怪我の功名さ。別に鼻を黄緑で描いたっていいだろう?たぶん、世界で、まだ誰も
やってねぇ」
「当たり前だよ。そんな人間、いるわけないもの」
「どいつもこいつも頭が固ぇな。俺は生まれてくるのが早過ぎたのかもな。あるいは、
国を間違えたか」
揺れる蝋燭の灯で、青木が首を傾げながら、色合わせと黄緑の鼻の人物をためつす
がめつ眺めていると、暗がりの庭のほうから、さわめきがした。
声で、森田と熊谷だとわかった。
青木グループの画友たちが前触れもなく現れ、泊まってよくのは、何も珍しい話で
はない。
「おい。お前らの意見も聞かせてくれねぇか。繁次郎が俺の作品を藝術じゃねぇって言い
やがるんだ」
告げ口するように縁側へでた青木に、森田が封書を差し出してきた。
2026年01月19日
[生活者ファースト][日本の生活を守る]中道改革 新党を大きく
対話、合意形成の政治担う
[斎藤代表]
1、消費税の軽減税率を引き下げていく。国が持つ資産を運用し、財源を生み出す
「ジャパン・ファンド(政府系ファンド)」を訴えてきた。・・・
1、(自民、日本維新・・)連立政権合意を見ると、集団的自衛権のフルスぺックでの
行使を容認するため、憲法9条の改正をめぜすといった内容が入っている。・・・
2026年01月19日
<鬼才 88
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 22>
「青木君、正解は何だい?色合わせなんだろ?」
「繁次郎がそこまで言うなら、画題は『色合わせ』でいいかも知れねぇな」
坂本には、ちんぷんかんぷんだ。
「二枚目はともかく、一枚目は何が描いてあるんだい?ただの線と円だけ
じゃないか」
「ああ、もちろん線と円を描いたんだ。組み合わせもいいし、どちらかだけ
でも構わない。そこまでは、まだ詰められちゃいねぇんだ」
胸を張る青木に、坂本は面食らった。
線と円のみ。
色の違う半円を組み合わせただけで、どうして藝術なのだ?
「こんなもの、子供だって描けるじゃないか」
「こいつは、まだ下絵だよ。今度、絵具の余裕ができた時に、油絵で描こうと
思ってな」
「本気なの?こんな絵は世界の誰も描かないよ」
「まだ誰もやってないってことは新しいんだ。だから、藝術なのさ」
「藝術だとして、これには何が描いてあるのさ?」
少し苛立って尋ねる坂本に、青木は楕円眼鏡を直しながら答えた。
「別に何も描いちゃいない。ほら、俺は音楽もやるだろう?頭の中に流れる
音楽を絵にしてみたらどうかって、ふと思ったんだ」
結局、坂本を揶揄っているだけか。
「だけど、何かを描かなきゃ、それは絵じゃないだろう?」
「いつ誰がそんなこと決めた?何を描いてるかわからない絵だって、あっても
いいさ。さっきお前がしたみたいに、見る人間が好きに楽しめばいいんだ」
愕然とした。いつかの『夕焼』から、さらに進んでいる。
だが、何かを描くから、絵なのではないか。描かれた作品が何も意味しないなら、
子供の落書きと変わりないはずだ。
2026年01月18日
初の本格的な中道勢力
新党「中道改革連合」公明の理念・政策ベース
2026年01月17日
<鬼才 87
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 21>
坂本は「さっきから何をやってるんだい?」と口に出しかけて、やめた。
青木は最近、絵具が足りず、ここぞという本番でしか使わなくなった。
色鉛筆を動かしながら、穴が開くほど真剣に紙を見つけている。
「ますます目が悪くなるから、一人でいる時も面倒くさがらずに、ちゃんと明かりを
つけるんだよ」
坂本が蝋燭台を手に青木の所へ行くと、長身が起き上がって胡坐を掻いた。
「繁次郎、お前はこれをどう思う?」
紙には、真ん中に黄緑の直線が上に七本、青線が下に六本、真ん中に黄と青の半円、
黄緑と桃の半円がひとつずつ円を作っている。上下の直線は黄と桃、青、黄緑で色を
微妙にずらしてあった。
「色合わせ・・・・なの?」
青木は三時間もかけてこんなものを描いていたのか。子供でも、五分あればできそうだ。
「なんで、この俺が色合わせなんかしなきゃならねぇんだ?」
確かに、青木が色合わせをする姿を見た覚えがなかった。頭の中でできるからだ。
坂本が首を傾げると、青木は舌打ちして、暗がりからもう一枚の紙を滑らせてきた。
同じような紙だ。やはり色合わせにしか見えないが、今度は何やら形がある。一番上の
茶色い縦長の枠は窓・・・・だろうか。
「街に沈む夕日を、窓から見ているのかな」
繁次郎が応じると、青木は子供のように嬉しそうな顔をした。
「じゃあ、その左下の青い四角は?」
「・・・・海に架かってる虹?」
「いい線行ってるじゃねぇか。一番下は?」
「窓の外で、夕暮れの川が流れているのかな・・・・」
応じはしたものの、坂本には子供だましの落書きにしか見えなかった。
三つの窓の右側には虹色の何かがあり、一番右には様々な色の短い線が縦長に描かれていた。
青木は腕組みをしながら満足そうにうんうん頷いているだけで、何も言わない。
2026年01月16日
<鬼才 86
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 20>
「こいつは、ただの下絵だからな。いずれ大壁画にする時には、ちゃんと顔まで
描き込むさ。俺に任せてくれたら、天平時代の浪漫を思い切り描いてやるんだがな。
『享楽』と『春』に加えて、これから描く『光明皇后』を四つの連作にすりゃ、
藤島も真っ青だろう」
青木はうっとりと夢見るような目つきで、天井を見上げていた。
頭の中で壁画を制作しているのかも知れない。だが、ここは日本だ。そもそも洋風の
壁画が似合う場所自体が限られていた。黒田や小山のごとき重鎮でも、簡単には声は
掛かるまい。
坂本は部屋の脇に置かれた2つの絵へ眼をやった。
未完ながら、三つの作品はいずれもひとつの世界観で貫かれている。
図書館へ通い、資料を漁り続けるうち、青木の頭の中には、天平時代の幻の大宮で女たちが
春宴にまどろみ、甘美な音楽に酔いしれる姿がまざまざと浮かび始めたという。
確かに、眺めていると、知らないはずの古の楽器が、坂本の耳に蘇るようだ。
ふと気が付くと、青木がうつ伏せになって、紙に色鉛筆を走らせていた。
また何か、思いついたらしい。
坂本はそっと自分の机に戻り、浮世絵模写を再開する。
三時間ほど経ったろうか、根を詰めて三枚仕上げると、外はもう暗くなり始めていた。
各部屋の明かりを灯すのは、だいたい同居人の役回りだ。
マッチを擦って、蝋燭を点けた。
石油ランプを使う余裕は、二人にない。蝋燭は買い置きをしてあるが、たまたま切らして
いて夜に戻ると、青木が月明りで絵を描いていた日もあった。
「青木君、そっちも点けるだろう?」
返事はなく、青木はまだ紙に向かって無心に色鉛筆を動かしている。
2026年01月15日
<鬼才 85
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 19>
青木は描きたくてうずうずしていたようで、もどかしそうに画嚢の中身を畳に
ぶちまけた。
赤色系の絵具が転がり出る。
青木の描く『天平時代』は色とりどりだが、必要な色を入手してきたたしい。青色系
だった『黄泉比良坂』とは、対照的だ。
一方、坂本は文机に浮世絵を広げて取り掛かる。
(俺は幸せ者だな・・・・)
東京へ出て、畏友と同じ下宿で絵を描いて暮らしていることが、坂本はたまらなく
嬉しかった。
青木は手の届かない高みにいるが、坂本も着実に腕を上げており、不同舎の画学生たちに
負けていない。
きっと青木を目指して背伸びを続けるうちに力が伸びてきたのだ。
上京した頃は、青木に絵を見せても「もっと描け」と素っ気なく応じるだけだったが、
近ごろは「悪くねぇな」という時もある。青木は口が裂けてもお世辞など言わないから、
それがますます自信に繋がった。
坂本が丁寧な模写を一枚終えたとき、青木は投げ出すようにパレットを置く音が
聞えた。
「やめだ。やめだ!俺の世界を描くには、カンヴァスが小さ過ぎるんだ!」
しばしば青木は、描いている途中で突然投げ出す。
青木がそのまま仰向けに倒れる音がした。畳の上に大の字になっている。
心配になって身に行くと、大きめのカンヴァスに十名ばかりの裸身の女たちが
群れていた。
れんじ窓の向こうに広がる、明るい世界の奥行きもいい。こちらに視線を合わせる女、
無心に横笛を吹く女、まだ顔がちゃんと描かれていない女もいる。出来が気に入らなかった
のだろう、画面左下の女の顔は赤黒く塗り潰されていた。
「仕上げないのかい?」
青木は興が乗れば恐ろしいほどの早筆だが、一旦醒めると、全く描かなくなる。
2026年01月14日
<鬼才 84
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 18>
「青木君、最近は筆が進むみたいだね」
「次から次へと発想が湧いてきて、止まらねぇんだよ」
青木は上機嫌だった。
天平時代の世界を自分の中で完全に創り上げており、ただそれを描き出すだけだという。
絵具とカンヴァスは常に足りないのに、次々と描くから、いつにもまして枯渇した。
たねに頻繁に会うのは、彼女が気前よく画材をくれるからでもあったろう。
「じゃあ僕は、気分転換に浮世絵でも描くよ」
自分の部屋へ戻ってきた。
丁寧に折り畳まれた久留米絣と袴を手に持ち、坂本に示している。
着物を広げると、ビリビリになっていたはずの袴の裾が縫われ、破れていた絣も継ぎ
はぎがされている。羽織の紐も組んであった。
さすがにもう着られまいかと青木が縁側に置いていたボロ着を、近所の誰かが直して、
二人が不在のうちに置いてくれていたのだ。
青木は縁側から裸足のまま庭へ飛び降りた。そのまま通りに駆け出る。
「洗濯ありがとうございます。縫いありがとうございます!」
坂本が部屋から首を伸ばして覗くと、青木が道の真ん中に立って胸を反らせ、通りに
向かって繰り返し叫んでいた。
やがて戻ってきた青木は、誰のものとも知れぬ善意に感謝し、泣いていた。
「これは、天が下さった善意だ。俺は必ず画界の歴山大帝になるぞ」
青木は決意を新たにしたらしく、早足で自室へ戻った。
どっかり三脚床几に座る音に続き、ガシャリと嫌な音がした。以前からグラついて
いたが、ついに壊れたらしい。
心配して部屋を覗くと、青木はへこたれておらず、膝立ちしてカンヴァスに向かって
いた。たねから先日もらってきた一枚だ。
2026年01月13日
<鬼才 83
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 17>
楕円眼鏡の奥の鋭い眼が、坂本のキャンバスをじっと見ていた。
「今のお前じゃ、まだ顔は描けねぇよ。すっぱりあきらめろ」
青木の頭ごなしの否定に、坂本は内心腹が立った。
でも、坂本がこれまで風景ばかり描いてきたのは、油絵では自信を持って人の顔を
描く力量がないと、自分でもわかっていたからではないか。
「だけど、見たものをそのまま描いて、藝術なのか?仮にクルーベを超える絵が
描けたとすりゃ、話は別だがね。目の前にある現実はただ、人間の想像力を生み出す
きっかけに過ぎまい。俺のスケッチもそのためさ」
青木の正確なデッサンを見ると、思わず姿勢を正したくなるほどだが、その青木は
あっさりと写実を捨てる。そもそも青木の場合、見る対象と描く絵が、しばしば
大きく違っていた。
「まさかお前も爺になるまで、そんな絵を描いちゃいないだろう?」
青木は常に上から物を言った。相手が小山でも黒田でも、きっとロセッティでも
同じに違いない。
「絵は見て描くものだと、僕は思ってる」
対象の形と姿を捉えて表すのが絵だ。
「ただの写実には、詩想も思想もない」とは青木の口癖だが、画界の重鎮たちも、
見た目をそのまま描いている。青木だけが違うのだ。
「繁次郎、人をもっと小さく描いてみろ。背を向けて手仕事しているか、屈んで
壺でも洗っているか。顔以外のところで仕事を表現したほうがいいな。変わった農具
なんかをうまく配置して風景を描けば、重鎮たちの気に入る絵にはなるだろう。
俺は好かんがね」
「なるほど、ありがとう。参考にするよ」
容赦ない批判をした後、青木はどうすべきなのか、ためになる意見を言ってくれた。
納得できない点もあるが、それは主として写実に対する姿勢な違いに由来していた。
「さてと、俺は天平時代の浪漫を描くとするか」
2026年01月12日
<鬼才 82
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 16>
十ニ 坂本繁次郎 4
ーー明治37年2月、
東京駒込・曙町
休日の昼下がり、やぶ椿の咲くお化け屋敷の荒れた庭も、坂本が頑張って手入れを
したから、どうにかこうにか見られる姿になった。
他の画学生の下宿へ転がり込んだのか、野宿でもしたのか、青木は昨夜、帰ってこなかった。
たねをモデルに<運命の女>を描き始めたらしいが、まさかお茶の水の彼女の下宿で
一夜を明かしたのだどうかと、坂本はひとり気に病んだ。
画業こそ充実していても、青木の懐具合は寒いままで、肩の破れた汗臭く汚い一枚びらの
着物に、ズタズタになった衣袴を着け、画嚢を担いで歩く。
最近は荒川や向島、小金井へスケッチに出かけ、夜半まで歩き回る日もあった。自分の
世界を創造するきっかけを探しているらしい。
若いから野垂れ死にはすまいが、と気を揉みながら、坂本は描きかけのカンヴァスへ
向かったーー。
「できますか?」
絵筆の根元を軽く叩きながら筆洗液に浸して後片付けをしていると、青木が
島崎藤村の口真似で話しかけてきた。
青木の下駄はついに歯がすっかり失われ、まな板に近くなったせいか、帰宅に気付かなかった。
お化け屋敷の三間のうち一番奥を青木が、真ん中を同居者が使い、玄関に近い台所は来訪者を
含め共用だ。締め切ると暗くなるから、日中は開け放っていた。
「青木君。この絵、どうかな?」
近ごろ坂本が描いているのは、働く中年の婦人だ。青木が仲良くなった農家の寡婦で、
郷里の母に近い年頃だからか、坂本も親しみを抱いた。娘たちが嫁いで、今は独りぼっちらしく、
お化け屋敷に住む若者たちに食べ物をよく届けてくれる。
「一度、描かせてくださいませんか」と頼んだら、快く引き受けてくれた。坂本はひとまず
描きあげて、じっくり手直しをしていた。
2026年01月10日
<鬼才 81
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 15>
「あったかいな」
青木は安銭湯で体を念入りに洗い、湯船に入ってきた。
「この世の極楽だ・・・」
首まですっぽり湯に浸かりながら、しみじみと漏らす青木が、藝術という果てなき
道を歩み続ける謹厳な修行僧のように思えてきた。
「青木。そろそろ君も意地を張らずに、少しくらい稼いだらどうなんだ?」
坂本ともよく話すが、放っておいたら、青木はどこかで野垂れ死にしてしまうので
はないか。
心配性の坂本は、青木を引き取りに行く夢を見たらしく、梅野からも言ってほしいと
頼まれていた。
「アルバイトなんかやる暇がどこにあるんだ?俺は父上に約束したんだ。世界で新しい
藝術を作るには、もっと学ばなきゃならねぇ」
青木は言う。
林檎ひとつ描くにも、思想がなければならない。
時代により民族により、自然により人生観により、林檎の見え方は違うはずだ。絵に
思想がなければ、人間は自然の模倣者と堕し、生きている写真機に過ぎねではないか。
「青木と違って、俺は日本がせいぜいだな。じっくりと新潟を旅してみたいんだ」
米どころの新潟県は、東京府や大阪府より人口が多い。
酒も美味いし、雪もある。梅野の実家は代々、八女郡緒玉で庄屋をしていたが、裕福と
いうほどでもなかった。
仕送りを受けながら好きな藝術を学ぶ身として、実家に無心ばかりできないから、梅野は
翻訳のアルバイトで貯金するつもりだった。
「ああ、今日はいい湯だった」
青木はさも名残惜しそうに湯舟から上がると、裸の上に再びインパルスを羽織った。
二人並んで、冬の寒空へ出る。
東京の夜空に、星はひとつも輝いていなかった。
2026年01月09日
<鬼才 80
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 14>
「待ってろよ」
冬の夜空に向かって、青木は叫ぶ。
「青木繁が本当の藝術を教えてやる。画界のお偉方も、自分たちじゃ手も足も出ねぇって、
三年前の巴里思い知ったはずだ。俺を世界にぶっつけたいだろう。だから、まだ学生の俺に
賞を与えたんだ」
青木は瞼を閉じ、焼き芋を軸まで食べながら驕慢な笑みを浮かべていた。
その目裏には、巴里の画たちが自分の絵に感心して見入る姿でも浮かんでいるのだろうか。
「二十年もすりゃ、俺に学ぶために、欧州から日本へ人が来る」
青木はには大言壮語がよく似合った。
これほどの大望を抱いて欧州へ留学した日本人画家など、皆無に違いない。
何とはなしに青木が首筋をこすると、垢がゴロゴロ出た。
夢見心地の顔つきのまま指で丸め、その辺へポイと捨てる。不潔な癖だが、本人は話に
夢中になって身を乗り出してきた。
酸い、嫌な臭いがする。服も洗っておらず汚いが、体自体が異臭を放っていた。
「ところで、青木が描く『天平時代』は、藤村教授の『天平の面影』と何が違うんだい?」
「よくぞ聞いてくれた。俺は藤島を乗り越えるんだ」
痒いのだろう。青木が頭を掻くと、雪でも降るようにフケが落ちた。
目に入ったたしく、青木が楕円眼鏡の奥で目をしょぼつかせる。
「近くでいい銭湯を見つけたんだ。風呂に浸かりながら話さないか、青木?」
大学の近くに、学生が行く安い銭湯があった。取り立ててよくもわるくもないのだが、
銭湯でさっぱりさせてやりたかった。
何度も通い、番台の老人と顔なじみだから、たまたま持ち合わせがないといえば、つけで
入らせてくれるはずだ。
「いいな。風呂でたっぷり話してやろう」
銭湯へ入り、更衣室へ上がった。
青木が一張羅のインバネスを脱いだ時、梅野は覚えず息を呑んだ。
コートの下は、素裸だった。厳寒の中を、青木はこんな格好で歩いていたのか。
2026年01月08日
<鬼才 79
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 13>
梅野は慌てて青木を助け起こし、ずれた楕円眼鏡を直してやった。
「変だな。もう歩けねぇみたいだ」
「体の具合が悪いのか?」
擦り傷のできた青木の額へ手を当ててみたが、別に熱はなさそうだ。
「そう言や、もう四日ほど食ってねぇな、腹が減ったらしい」
東洋が、欧州がと、相変わらず威勢だけはいいが、青木は金を作る工夫をまるでしなかった。
梅野が自分の懐を弄ると、二銭があるきりだった。次の仕送りはじきに届くはずだが、
同じ貧乏学生だ。
通りの向こうを見やった。老人が焼き芋を売っている。
「ここで待ってろよ、すぐ何か食わせてやる」
梅野は、返事をする気力もない青木を植え込みに残し、買って戻った。
震える手が、焼き芋を受け取った。
青木は真ん中で芋をぽきりと割り、半分を差し出してきた。
隣に座って、芋を頬張る。
青木は一口ずつじっくり味わうように食べていた。
「鳴り物入りの巴里万博で、欧州の連中は日本人の描いた洋画に見向きもしなかった。
当たり前だ。全部、猿真似なんだからな。俺が世界に出るまで、日本は馬鹿にされっ放しさ」
青木は、絵具で汚れた指先に付いた芋のぬめりを、何度も丁寧に舐め上げながら、ギラ
つく目で梅野を見た。
「世界が俺の登場を待っている。藝術は新しくなきゃ、駄目だ。ラファエル・コランも、
アントニオ・フォンタネージも、絵が普通に巧いだけの二流画家さ。黒田たちは猿真似の
技を磨くばかりで、ちっとも冒険しねぇ。美校はそんな教授たちに尻尾を振る連中ばかりだ。
情けない奴らさ」
青木は残った焼き芋の軸を指先で摘まんだまま、遠く欧州のライバルたちを
睨み殺すように、冬の夜空を見上げた。
2026年01月07日
<鬼才 78
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 12>
十一 梅野光雄 2
ーー明治37年(1904)2月、
東京小石川・水道端町
「旧約聖書じゃ、最初に『光あれ』っていうだろう?俺は頭の中であいつができるんだ。
世界が創れるんだよ」
インバネス・コート姿の青木が、大げさな身振り手振りで熱く語り続けた。
春はまだ遠い。
話し合う親友と藝術論を戦わせるくらい幸せな時間は少ないが、大学前通りを吹く風の
寒さに、梅野はフロックコートの前を合わせる。
「俺は神話を読んで、その世界に入り込んだら、映像が勝手に次々と頭に浮かんでくる。
そいつを思い通りに描けるんだ。画材さえあればな」
梅野の下宿へ向かう道すがら、青木は<天平時代>を描く新しい連作につき、のべつまく
なし語り続けた。
青木の下駄は白い鼻緒も緩み、歯もずいぶん擦り減っている。
もう美校も五月蠅く言わなくなったからと、梅野に制服を返した青木は、一張羅の
インバネスだった。
「きっとラファエル前派の連中も、象徴主義の画家たちも同じだろう。日本じゃ、俺にしか
できねぇ芸当みたいだがね」
梅野の下宿は、早稲田大学にほど近い小石川水道端町にあった。
たまに青木が泊まりに来ると、夜の一、二時を過ぎても藝術、美術一般から宗教神話、
ヴェーダや印度の戯曲に至るまで話し込んだ。
青木は東洋美術の将来を語り、東洋復興の礎たる「地固め石の一魂」となって死ぬなら
実に満足だと言った。
青木の同期生には、卒業後の生活を案じて図画教員の務め口を探す物もいるそうだが、
青木は自分の身より日本を、東洋を、さらに世界を考えていた。
「どうした、青木!」
突然言葉が途切れ、傍らの青木がふらついて、路傍の躑躅の植え込みへ、頭から突っ込んだ。
2026年01月05日
<北斗七星>
今年で没後110年を迎える文豪夏目漱石は、手紙を書くことが大好きだった。・・・
作家・芥川龍之介に対しては「新時代の作家」と期待を込めた上で”みんな、馬になりたがるが、
牛のように、あせらず、ずぶとく、根気強く進め”と人生観を説く。さらに「世の中は根気の
前に頭を下げる事を知っていますが、花火の前には一瞬の記憶しか与えてくれません」と
念押しする。・・・・
2026年01月05日
<鬼才 76
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 10>
「さあ帰ろう、青木君。皆さん、夕飯時は何かとお忙しいからさ」
袖口を強く引っ張ると、青木は赤ん坊に頬ずりをしてから、若い母親にそっと手渡した。
「この子が大きくなったら、自慢してくれよ。昔、世界のアオキに可愛がられたってな」
坂本は一礼したが、青木はふんぞり返って歩き始める。
「ねえ、青木君は福川たねさんのことをどう思っているんだい?」
青木は一瞬考え込んだ。
何の話か、すぐにはわからなかったらしい。
「ああ。別嬪じゃねぇが、大きな目がいいな。あの娘をモデルにして妄想を膨らませれば、
俺の<運命の女>に辿り着けるかも知れん」
森田からはマリーを慰めるのに苦労していると聞いていた。お節介だろうが、鈍感な
青木が女性を弄んで傷つけるような結果は避けたいと思った。
「そんな話より、お前に見て欲しいものがある。『男の顔』だ」
お化け屋敷に上がると、帆木綿で代用した大きめのカンヴァスには、金地を背に赤衣を
まとったザンバラ髪、口ひげに厚唇の傲慢そうな男がいて、坂本を睨みつけていた。
しばらく屋敷に籠って、自分をモデルに東洋の豪傑を描いていたと言う。
「こいつをセントルイス万博に出す。向こうで受賞すりゃ、俺も本物だろう」
世界でも征服したような顔つきで、青木は胸を張っている。
「だけど、青木君。出品の締め切りはとっくに終わってるはずだよ」
「何だと!そいつは本当か?」
慌てふためいた青木が、坂本に詰め寄ってきた。
「太平洋画会でも、小山先生が何カ月も前に話してたから、間違いないね。船で海外へ
輸送するわけだし、選考手続も慎重だから、締め切りも早いんだ」
軟体動物と化したように、青木は力なくその場にへたり込んだ。
2026年01月01日
<鬼才 75
赤神諒 第Ⅲ章 天平時代 9>
たねと話した夕刻、坂本は少し早めに非同舎を出て、帰路についた。
途中、上り坂の手前で、老人や婦人たちに囲まれ、親しげに談笑する青木を見つけた。
梅野から借りている奇妙な制服姿だが、慣れると似合って見えるから、不思議だった。
お化け屋敷に青木が住み、入れ替わり立ち代わり若者たちが訪れるので、近所の住民たちも
屋敷の主に強い関心を寄せるようになっていた。
人懐こい青木に好意を持った人たちは、余った食べ物などを持ってきてくれた。青木は
食事の準備を何もしないから、夕方ふらりと近所を訪ね、厚かましく馳走になったりもする。
青木は百人一首や漢詩の絵カルタを作り、近所の人たちも集めて興じた。常に青木が勝利し、
いつも真ん中で得意げに胸を張るのだが。
近づいてゆくと、赤ん坊を抱いてあやす青木の笑顔が見えた。
「この赤子は俺の手にすっぽり入る」
などと冗談を言っている。
「ばあちゃん、ありがとな。鱈腹食ったから、向こう一週間ほど飲まず食わずで描けそうだぜ」
「お腹が空いたら、裏の畑に生ってるものを好きに持って行っていいよ」
「お礼に今度、絵を描いてやるよ。俺が歴山大帝になる日は遠くない。めっほう高く売れるぜ」
「そのレキザンってのは何だか知らないけどさ。とにかく、ちゃんと物を食べるんだよ」
声の大きな老婦人が青木の痩せた背中を、音を立てて叩く。
「よう、繫次郎。しばらく振りじゃあねぇか。みんなに紹介したっけか?俺の大親友の坂本繁次郎だ。
まだずっと先の話だが、こいつもいい画家になるぜ。今のままじゃ世界にゃ通用しねぇが、
日本の洋画家は俺以外、一人残らずそうだ」
皆の視線を一斉に浴びてドギマギした。坂本は「青木君がご迷惑をおかけしております」と
頭を下げるだけで精一杯だった。
過去のメモ